平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



早川城跡は、地元では古くから城山(じょうやま)と呼び、
鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。
城は早川地内を南北に貫流する目久尻(めくじり)川の東方、
相模野台地の南に突き出た部分を利用して築かれ、
その東・南・西側は急峻な崖で、天然の要害の地となっています。





綾瀬市教育委員会によって平成元年から平成6年にかけて行われた発掘調査の結果、
曲輪・土塁・空堀・物見塚などが確認されています。
これらの遺構と遺物などから判断して早川城は室町時代初期ないし
鎌倉時代にまでさかのぼる可能性のある城郭であることが明らかとなりました。
鎌倉幕府の御家人であった渋谷一族により築城され、
14世紀から15世紀にかけて使用されたものと考えられています。
明治19年の早川村の地誌には、
「鎌倉時代、渋谷荘司居城廃跡なり」と記されています。

日本のお城といえば壮麗な天守閣や積み上げられた巨大な石垣、
連なる櫓(やぐら=天守以外の建物)群などを思い浮かべるかもしれませんが、
中世の城は、戦国時代以降の城とは異なり、周囲に堀切を巡らし、その内側に
掘った土を積み上げ土塁を築いて、主郭(本丸に当たる部分)が造られました。

城跡は現在中世城郭の遺構を残した状態で保存され、
桜の広場・遊具広場・幼児広場・日本庭園などがつくられ、
城山(しろやま)公園として市民に親しまれています






桜の広場

遊具広場

堀切と土塁 現在も往時の姿をとどめており、その様子がはっきりとわかります。

発掘された早川城の画像は、綾瀬市役所市史だより第31号
「城山公園ぶらり歴史さんぽ」よりお借りしたものに一部文字入れしました。

早川城跡では三方を崖に囲まれた地形が利用され、北側の台地へと続く部分に深い堀切を設け、
内側に土塁を築き、さらに周囲の急斜面にも堀切と土塁が巡らされて主郭が形成されています。
主郭西部には物見塚があり、西側斜面二カ所では曲輪(くるわ)が確認されました。
この城郭は、常駐して城を守っているような性格でなく、
有事の際に防衛拠点として使われた山城であると考えられています。

「渋谷氏と早川城跡(じょうせき)
渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という
荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、
平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を
渋谷重国が保護したとの記事があることから、
この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、
その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、
早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。
1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ
多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、
その軍功により薩摩国入来院(いりきいん)ほかに所領を得、
地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。
しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、
その一族が早川城を築城したものと考えられます。」

「堀切と土塁  鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、
天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を
周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。
堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、
さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は
急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。
しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という
大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、
外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、
権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。」
 

物見塚跡には、東郷平八郎が昭和7年(1932)に建てた
「東郷氏祖先発祥之地」の石碑があります。 日露戦争時の日本海海戦(1905年)で
ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた際の、 日本連合艦隊司令長官東郷平八郎は、
当地から薩摩国東郷へ移った渋谷氏の子孫です。

渋谷氏略系図は、渋谷氏と早川城跡説明板より転載

「物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。
南北21メートル、東西23メートル、高さ約2メートルの塚です。
発掘調査の結果、表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が
見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。
また塚の作り方が土塁と同様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの)であることから、
城郭の関連遺構の一つであり、外敵の進入を見張るために築かれた塚であると思われます。
物見塚の上には、昭和七年に祖先発祥地東郷会により建てられた
「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な
旧海軍元帥である東郷平八郎の祖先の地であることを記念して建てられたものです。
東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。」

早川城跡では、中世城郭遺構のほかに
縄文時代および古代の竪穴住居址も多数確認されました。

『アクセス』
「早川城跡(城山公園)」神奈川県綾瀬市早川城山3-4-1
相模鉄道・JR・小田急線「海老名」駅よりバス(約15分)「城山公園」下車すぐ

『参考資料』
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年
「神奈川県の歴史散歩(上)」山川出版社、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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