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各地に割拠する武将達の姻戚関係
(
yukariko
)
2010-07-20 23:00:54
複雑で入り組んでいて、またこの時代は長子相続とは決まっていないせいでか、所々で系図を見せて頂いて頭の中を整理しないとごちゃごちゃになりそうです(笑)
源氏の家人が時代の流れで平氏の家人となったり、娘婿にして味方に引き入れるやり方で取り込んだりで親兄弟・婿・孫が敵味方になる事もしょっちゅうだったのですね。
源氏も平氏も一枚岩ではなく、恩義や褒賞として与えられる土地の権利や利害など思惑で裏切ったり寝返ったリもあったのでしょうね。各々の欲が渦巻いて。
日本のあちこちでこの騒ぎが広がって、とても貴族化した平氏では統制できなくなった…清盛が下知しても惟盛や宗盛ではこのような現実的な武士を率いての戦は無理だったでしょうから。
複雑ですね
(
sakura
)
2010-07-21 18:09:04
頼朝が挙兵の際、頼朝が頼みとしたのは北条氏や土肥、土屋、中村、岡崎、三浦、和田等等は桓武平氏の流れをくむ武士です。
ここでいう「平氏」とは桓武平氏の平正盛から出た六波羅家、それに従った武士。「源氏」というのは、河内源氏の鎌倉家とそれにそれに従った武士。これを確認しておかないと、頼朝は平氏に擁立されたことになり分かりにくくなってしまいます。
昔は源氏の家人として仕えていた者も、平治の乱後、平氏の恩を受けざるをえず、平氏の家人になった者が多くいた。(所領を安堵されることも恩を受けたことになる。)頼朝が挙兵の際、源氏にゆかりの深い一族に呼びかけるとすぐに頼朝の下にすぐに彼らが集まったと誤解しがちですが、中央勢力が平氏にある時に、海の者とも山の者とも分からない頼朝の下に集まる筈がなかったのです。
普段、武士は農村で農業や土地開発にいそしみますが、境界を接する領主たちの間では所領争いが繰り返されていて、三浦氏、中村氏などが義朝に従って伊勢神宮の所領大庭御厨に乱入し、大庭一族と抗争したことがありますが、これも領地が接近していたために起こった争いです。
大庭景親は、平家に仕えて平家の威光を背景に勢力を拡大すると、三浦氏・中村氏を圧迫します。石橋山の合戦の時、その大庭氏と三浦氏・中村氏が敵味方になって戦ったことになります。悪源太は三浦氏の娘婿ともいわれていますから、義賢を襲った背景には三浦氏がいたことになります。これも義平が北へ、義賢が南へ勢力を広げようとして起こった争いです。
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源氏の家人が時代の流れで平氏の家人となったり、娘婿にして味方に引き入れるやり方で取り込んだりで親兄弟・婿・孫が敵味方になる事もしょっちゅうだったのですね。
源氏も平氏も一枚岩ではなく、恩義や褒賞として与えられる土地の権利や利害など思惑で裏切ったり寝返ったリもあったのでしょうね。各々の欲が渦巻いて。
日本のあちこちでこの騒ぎが広がって、とても貴族化した平氏では統制できなくなった…清盛が下知しても惟盛や宗盛ではこのような現実的な武士を率いての戦は無理だったでしょうから。
ここでいう「平氏」とは桓武平氏の平正盛から出た六波羅家、それに従った武士。「源氏」というのは、河内源氏の鎌倉家とそれにそれに従った武士。これを確認しておかないと、頼朝は平氏に擁立されたことになり分かりにくくなってしまいます。
昔は源氏の家人として仕えていた者も、平治の乱後、平氏の恩を受けざるをえず、平氏の家人になった者が多くいた。(所領を安堵されることも恩を受けたことになる。)頼朝が挙兵の際、源氏にゆかりの深い一族に呼びかけるとすぐに頼朝の下にすぐに彼らが集まったと誤解しがちですが、中央勢力が平氏にある時に、海の者とも山の者とも分からない頼朝の下に集まる筈がなかったのです。
普段、武士は農村で農業や土地開発にいそしみますが、境界を接する領主たちの間では所領争いが繰り返されていて、三浦氏、中村氏などが義朝に従って伊勢神宮の所領大庭御厨に乱入し、大庭一族と抗争したことがありますが、これも領地が接近していたために起こった争いです。
大庭景親は、平家に仕えて平家の威光を背景に勢力を拡大すると、三浦氏・中村氏を圧迫します。石橋山の合戦の時、その大庭氏と三浦氏・中村氏が敵味方になって戦ったことになります。悪源太は三浦氏の娘婿ともいわれていますから、義賢を襲った背景には三浦氏がいたことになります。これも義平が北へ、義賢が南へ勢力を広げようとして起こった争いです。