コメント
 
 
 
佐原義連の子孫が葦名氏として残ったのですか (yukariko)
2013-11-27 09:48:41
三浦一族は滅びたと思っていましたが、北条氏との姻戚関係で?嫡流とは別行動で生き残っていたのですね。
その子孫も思慮深かったのかな?

十九歳の義連の姿を映したとされる観音像ですが、猛々しいだけの猪武者では似顔を観音様には映せなかったでしょうから、その頃から端正で柔らかな気配もあったのでしょうか?

 
 
 
義連の実像はわかりませんが (sakura)
2013-11-28 14:53:26
満願寺の観音像は、どことなく少年らしさを残した親しみやすい像ですね。

ここで少し複雑ですが、義連の子、盛連の遺子六人が宝治の乱で、
三浦一族の行動に加わらず、北条氏についた理由を述べておきます。

この乱で敗れた三浦泰村の異母兄弟矢部禅尼は北条泰時の妻です。
矢部禅尼と泰時の孫が、三浦一族を滅亡させた執権北条時頼です。
ところが、矢部禅尼は佐原盛連の後妻に入り、三人の息子を生んでいます。
先妻は彼女の姉です。
なぜ、矢部禅尼が二人の夫を持ったのか(重婚)については、
諸説があるので、ここではおいておきます。
佐原盛連のその先妻の子と後妻矢部禅尼の子計六人が北条氏側についたという訳です。


会津の葦名氏は、佐原義連→盛連→葦名光盛→泰盛…略…盛重の代で、
伊達政宗に攻められ常陸に敗走、戦国大名葦名氏は滅亡しました。
 
 
 
佐原義連の子孫 (dual-y)
2019-04-21 01:02:59
美作高田城の三浦貞宗は佐原義連の子孫です。化生寺に
殺生石の伝説も残っています。落城後に広島県三和町羽出庭へ子孫が落ち延び当地に国光城という中世山城が残り、子孫家があります。ここへ移住した初代は毛利配下
となりましたが、間もなく同じ毛利氏の家臣、佐々部太郎左衛門によって殺害されてしまいました、この初代の三浦弾正国光(法名・珠徳院殿前之拾意道仙大居士)の
墓所もかつては?あったようです。その後は代々、上野山・原田・吉原・宍戸・福間等の古い西遷御家人家系の
家門より夫人を迎えています。屋敷のすぐ裏に山城のあった六郎山があります。毛利の防長移封へは同行せず、帰農しました。
 
 
 
佐原義連の子孫 (sakura)
2019-04-21 16:00:11
dual-yさまご訪問ありがとうございます。

佐原義連の子孫の中には、繁栄した者もいました。
三浦新井城主三浦義同(よしあつ)の子孫に徳川家康の側室となった
お万(養珠院)がいます。お万の父は勝浦城主正木頼忠です。

頼忠の祖父正木時綱は、相模三浦氏の出身とされ、
安房正木郷を領し正木と称しました。
のちお万は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門の養女となり、
家康が京から江戸への帰路、三島本陣の宴席で家康の目にとまり、
江戸城の大奥に入ることになりました。
お万が生んだ2人の男子がのちの紀伊藩祖頼宣と水戸藩祖頼房です。
お万は徳川御三家の中のうち二家の藩祖を生み、
家康の数多いる側室の中でも別格でした。
 
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