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沢山の人がその身を投げうって頼朝を助けたのですね! (yukariko)
2010-08-27 19:52:56
伊豆・相模の有力豪族達が源氏平家に分かれて争った訳ですが、圧倒的に不利な源氏の棟梁頼朝を支え励まし、実質的な援助をし、真鶴岬から船出して再起の戦場の安房に向かう一行を支え、後の幕府開設後も有力な御家人として後ろ盾をしたのだから、その功績は大ですね。

でも夫人と一緒の銅像というのも珍しいと思って。
蛭ヶ小島の頼朝政子像も夫婦二人ですが、これとは意味合いが違うでしょう。
一武将の妻の記事などなかなか書かれないと思うのに、「夫人の遺徳」と書かれているからには実際に具体的な出来事があったのでしょうね。

男たちが戦に明け暮れる日々に、実際に豪族の所領を運営して行くのは館内で妻の指示の下、一族の郎党、乳母、召使たちでしょうから。
 
 
 
頼朝は多くの人に援けられました (sakura)
2010-08-28 16:51:58
敗れたとはいえさすが源氏嫡流の御曹司、多くの人々に救われたというエピソードや伝承史跡があちこちに残っています。
実平の妻がひそかに食料を運んだと思われるしとどの窟は、実平の館からはかなりの距離があります。(JR湯河原駅前から元箱根行きのバスに乗ってしとどの窟まで30分、そこから山道を20分位下って窟に辿りつきます。)
源平盛衰記にいう臥し木に身を隠していた頼朝を梶原景時がわざと見逃したという土肥の大杉跡までは、更に倍くらいの距離があると思われます。実平の夫人は民や農民に姿を変えて…と夫婦像の説明プレートに書かれていますが、敵の目をかい潜りながら、女の身で食糧を持ち山道を通うのは大変な苦労だったと思われます。
その功を讃えての夫婦像だと思いますが、陰で夫を支える武将の妻の像は珍しいですね。
源平盛衰記「小道地蔵の事」にも載せられている純海和尚のお堂跡には、由来の刻んだ小道地蔵寺屋敷跡の碑が建っているそうです。いずれの伝承史跡も山ふかい所にあります。土肥椙山は実平の所領内だったからこそ頼朝を巧みに道案内できたのでしょう。


 
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