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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



湯河原で土肥実平の館跡、城願寺などを訪れ、翌朝、湯河原駅前から
箱根登山バスで
箱根神社に向いました。


箱根山は古くから山岳信仰の中心地とされ、奈良時代に山岳修行僧
万巻(満願)によって
堂宇が建立され、箱根権現と呼ばれました。
中世には、修験道の聖地となり多くの僧兵をかかえて繁栄し、

鎌倉時代には、頼朝ら歴代将軍や幕府要人の崇敬を受け発展しました。

前面の芦ノ湖は古くから権現の御手洗池とされ山岳僧たちの修行の場でした。
境内には平安時代征夷大将軍坂上田村磨呂が蝦夷平定の際、
矢を献上したという
矢立杉があります。
前九年の役に出陣した源頼義や義家、頼朝、義経らが
この先例にならって
矢立杉に矢を献じ武運長久を祈ったと伝えられています。

また宝物の中には伝源義経奉納の太刀薄緑丸(うすみどりまる)があります。



芦ノ湖畔を行きます。



参道には杉の大木が聳えています。








吾妻鏡によれば、石橋山合戦で敗れ土肥山中に逃れた頼朝を
箱根権現別当行実、その弟永実が助けています。
行実は武芸に秀でた永実に食糧を持たせ
土肥山中に逃れた頼朝を探させました。全員餓えていたので
永実が献上した食事は千金に値したという。
その夜箱根山の永実の僧坊にかくまわれましたが、山木兼隆の祈祷師だった
行実の弟智蔵坊良暹(りょうせん)が悪徒を集め頼朝を襲おうとしたので、
翌日、頼朝らは土肥椙山に戻りました。

行実がこのように尽すのは、父良尋の代から源氏に仕え
為義から賜った下文には「東国の輩は行実が催促したならばそれに従うように」
義朝の下文には「駿河、伊豆の家人らは行実が催促したなら従うように」と
書かれていました。この縁で頼朝が伊豆に配流後、
箱根と伊豆を往き来して頼朝のために祈祷をし、忠義を尽してきたという。
(吾妻鏡・治承4年8月24日、同年8月25日条)
8月25日、頼朝らは山を下り、3日後には真鶴岬から小舟で安房へ落ちのびます

行実の恩に報いるため、鎌倉に本拠を構えた頼朝は箱根権現に
相模国早河本庄を寄進しています。(吾妻鏡・治承4年10月16日条)


頼家も建仁二年(1202)には早河庄を中分(折半)し、土肥弥太郎遠平の
知行を停止し箱根権現に寄進しました。(吾妻鏡・建仁二年10月16日条)
寿永元年(1182)8月頼朝は政子安産祈祷のため、土肥遠平を奉幣の
使者として箱根権現に遣わし、この時誕生したのが後の二代将軍頼家です。
以来、箱根権現・伊豆権現を関東の鎮護神として崇拝し、二所詣と称し
鎌倉幕府歴代の将軍みずから参詣、奉幣をおこなうのが恒例となりました。

とくに三代将軍実朝の参詣は八度を数え、その旅で十国峠から
相模灘に浮かぶ沖の小島(初島)を見て詠んだ和歌が残っています。
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ〔金槐和歌集〕

長い間神仏習合の時代が続きましたが、明治になって外来の仏教を
排斥しようという流れがあり、明治元年神仏分離令により
箱根権現の別当寺金剛王院東福寺は廃寺となりました。
別当職は廃止され、別当は神主と改められ箱根神社と称するようになります。
なお金剛王院東福寺は、箱根神社境内駐車場付近にあったと推定されています。


箱根神社御由緒 (現地説明板より)
「御祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)箱根神社は、古来関東総鎮守

箱根大権現と尊崇されてきた名社で、「交通安全・心願成就・開運厄除」に
御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
当神社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(二四〇〇年前)、
聖占仙人が箱根山の駒ケ岳より、主体の神山を神体山として
お祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
奈良朝の初期(1200年前)、萬巻上人は、ご神託により現在の地に里宮を建て、
箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。

平安朝初期、箱根道が開通しますと、往来の旅人は道中安全を祈願しました。
鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、ニ所詣(当社と伊豆山権現参詣)の
風儀を生み、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、
武家による崇敬の篤いお社として栄えてきました。
近世、官道としての箱根道が整備され、箱根宿や関所が設けられますと、
東西交通の要(道中安全の守護神)として当神社の崇敬は益々盛んになり、
庶民信仰の聖地と変貌しました。こうして天下の険箱根山を駕籠で往来する時代から、
やがて車社会に変る近代日本へと移行しますが、その明治の初年には、

神仏分離により関東総鎮守箱根権現は、箱根神社と改称されました。
爾来、明治六年、明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、

大正・昭和・平成の現代に至るまで、各皇族方の御参拝は相次いで行われました。
最近では、昭和五十五年、昭和天皇・皇太后両陛下の御親拝に続いて、
翌五十六年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。

現在箱根に訪れる年間二千万人を越える内外の観光客を迎えて、
ご社頭は益々殷賑を加えているのも、箱根大神の御神威によるものであります。」
『アクセス』
「箱根神社」神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80
箱根登山バス湯河原駅から終点元箱根まで約1時間 
元箱根バス停から二の鳥居まで約5分 
バスの本数が少ないのでご注意下さい。
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 
奥富敬之「源頼朝のすべて」吉川弘文堂 現代語訳「吾妻鏡」(1)(7)吉川弘文堂
 
 
 


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コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
 
 
 
神社の中の写真が懐かしいです! (yukariko)
2010-10-09 10:09:58
昔に彫刻の森美術館に行った時、仙石原で一泊箱根関所跡、恩賜箱根公園・杉並木そして海賊船・大湧谷と廻りましたが、箱根神社湖畔の「平和の鳥居」を見て、次は箱根神社にお参りをと思っていました。
その後もう10年以上前になりますが友人と湯河原の寮に泊まり箱根神社と成川美術館を訪ねました。

細かい所はもうおぼろげですが、一度でも自分の足で訪ねた場所はいつまでも懐かしい気がします。

でも父の代から長い間の源氏への恩顧と頼朝に対する忠誠がこれほどとは知りませんでした。

山中に逃れ隠れていた主従にとってこの時の行実の行動は神仏のお導きと思えたでしょうし、後の箱根権現に対する尊崇もよく分かります。
 
 
 
箱根神社に参拝されたそうですね (sakura)
2010-10-09 17:09:07
私は今回がはじめてです。頼朝に関する資料を読むうちに名僧のほまれの高い行実が土肥実平とともに敗戦後の頼朝を助け、箱根権現を隆盛に導いたことを知り訪ねてみたくなりました。
中学時代の修学旅行その後の旅行会社のツァーで芦ノ湖遊覧船から平和の鳥居に富士という贅沢な景色を眺めましたが、箱根神社はどちらの行程にも入っていませんでした。湯処でもある箱根にはyukarikoさんも行かれた箱根関所や美術館の他水族館、植物園などの観光施設があり、当日は夏休みだったせいでしょうか。湯河原からのバスはほぼ満員。私も一度でも訪ねた所の写真は何となく親しみが湧きます。
平安時代中期には箱根越えが多く利用されるようになり、箱根神社は多くの旅人たちの信仰を多く集め、鎌倉時代以降も足利持氏、北条早雲・氏綱、徳川家康など関東の武将が崇拝し所領の寄進や社殿の再建がなされ今日に至るまで繁栄しているようです。
 
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