平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



佐原城の主は「鵯越の逆落し」の立て役者、佐原十郎義連です。
義連は相模の豪族三浦義明の末子で、一ノ谷の鵯越で絶壁に立った時、
「何のこれしきの坂、これは三浦の方の馬場よ。」と
真っ先に駆け下りた勇者で、弓馬の名手としても知られています。

頼朝の父義朝は、鎌倉の亀ケ谷に居宅を構え東国に基盤を持ち、
義朝の長男・鎌倉悪源太義平と呼ばれた義平の母は三浦義明の娘でした。
義明は頼朝が挙兵すると、一族とともにいち早く同調しました。
頼朝は三浦半島の三浦氏、房総半島の千葉氏の
強力な支援を得て挙兵を決断したと思われます。

頼朝が鎌倉に入って間もなくの頃、三浦氏の本拠地を訪ねたことがありました。
この時、頼朝に対し皆が下馬する中で、当時の関東きっての大豪族
上総介広常だけは、馬から下りずに一礼しただけでした。
広常に向かって、まだ年若い義連が無礼な態度を咎め、その宴席で
広常と三浦義明の弟にあたる岡崎義実とがささいなことで喧嘩した時、
二人の間に割って入りその場をおさめたのも義連でした。


また『義経記』には、こんな逸話が載せられています。
義経の子を宿していた静御前は、北条時政によって探し出され、
母と共に鎌倉に護送されました。
頼朝に請われて鶴岡若宮八幡宮で歌舞を舞うことになり、
静御前が舞うとの評判に、当日は群集が門前に市をなすほど詰めかけ、
追出してもすぐに幕を潜って入ってくるので、大変な騒ぎになりました。
その時に義連が機転をきかせて廻廊の真ん中に
三尺(約90㎝)の高さの舞台を造らせました。
なにぶん急なことであり、若宮の修理用に積んであった材木を運ばせ、
にわか作りの舞台を唐綾や文様を織り出した紗で飾り、
頼朝を喜ばせたとあり、ここでは舞台を美しく飾る才能も見せています。

文治五年(1189)奥州合戦では、大手軍の先陣に属して奮戦し、
頼朝から会津四郡の地を与えられています。
武勇と思慮を兼ね備えた義連は、頼朝のお気に入りだったといわれ、
側近として常に近仕し、建久元年(1190)、東大寺再建供養のため、
上洛する頼朝に従い、勲功賞として左衛門尉に任じられました。
和泉・紀伊両国の守護も務め、
さらに遠州灘に面した遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺)の
惣地頭兼預所(あずかりどころ)となり、本拠地の三浦半島を
海上ルートでつなぐネットワークを形成していたことになります。

聖徳院奥の標高30mほどの台畑とよばれる南から北に舌状に
突き出た台地が佐原義連の居城址と伝えられる佐原城址です。
三浦半島は平地が少なく、起伏に富んだ地形で
小高い山が続き半島全体が要害の地となっています。
三浦一族は半島の中央部に位置する衣笠城を馬蹄形に取り囲むようにして、
半島にいくつかの城を構えて防備を固め、
佐原城は馬蹄形の大手入口にあたる重要な位置を占めていました。
平安時代末には、台地の東側は久里浜の深い入り江が
佐原城近くまで入り込んでいて、義連の本拠地の三浦郡佐原は、
入り江の対岸にあった怒田城とともに、三浦水軍の拠点でもありました。

いま、佐原城址の台地には、一面に畑が広がり、
見下ろすと麓は家並に埋めつくされ、僅かに雑木の中に建つ
「佐原十郎義連城跡」と刻まれた石碑だけが往時を偲ばせます。 
佐原城址の碑は、大変わかりにくい場所にあります。
聖徳院から石碑までの道順を画像にしました。

聖徳院





聖徳院からガードをくぐります。







やっと人一人通れる道幅です

細い道を上りきると視界が開けて畑に出ます。



左側の道を200mほど進むと佐原城跡の石碑があります。
車は別のルートから上るようです。







 佐原城址(現地説明板)
 康平六年(1063)、前九年の役の戦功により、
三浦半島を領地として与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名乗り、
現在の衣笠町に衣笠城を築きました。
以後、数代にわたり三浦半島の各所に一族を配置して、衣笠城の守りとしました。
 この台地は、第四代三浦大介義明の子佐原十郎義連
(生年不詳~建仁三年・1203年)が、城を築いた所と伝えられています。
現在、この台地を中心に残っている地名に、
的場・射矢谷・殿騎・城戸際・駿馬入・腰巻などがあり、
自然の地形を上手に利用して山城を築いた当時の様子をしのばせてくれます。
 この台地の前方、北から東にかけての地域は、内川新田と呼ばれ、
工業団地になっていますが、当時は深い入り江をはさんで、
対岸に怒田城がありこの佐原城とともに衣笠城の東面を固めていました。
 また、この台地は、昭和五十一年の一部発掘調査で、
弥生時代中期(約2000年前)から飛鳥時代(約1400年前)にかけての
村の跡であることも明らかになっています。
七、八軒の家があって、この谷戸付近に初めて水田を開発し、
稲作農業を営んでいたと考えられています。  横須賀市 
佐原義連が活躍した義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園) をご覧ください。 
佐原十郎義連 の墓 (満願寺)  
『アクセス』
「聖徳院」横須賀市佐原3-7-1

北久里浜駅から 京急バス「佐原三丁目」下車 徒歩5分
 『参考資料』
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 
「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会 「神奈川県の地名」平凡社
 「検証日本史の舞台」東京堂出版 現代語訳「義経記」河出文庫 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
間違いは指摘し、諍いをとりなす、武勇だけでなく機知にも富んでいるとはすごい武士ですね。 (yukariko)
2013-11-18 10:04:57
仲裁ができる人というのは人格的にも優れ、それを回りも承知しているのでしょうね。
鵯越の戦の時は義経に従って手柄を立てているようですが、後々も頼朝の側近として重用され手柄を立てて土地を与えられ最後は城主にまで。

三浦氏は旗揚げに呼応してからずっと、源氏の郎党・御家人として重要な役回りを担ってゆき、ずっと後に北条氏との争いの破れて滅びるまでは主流を構成する有力な一族ですね。
それには佐原十郎義連だけでなく、一族に武勇以外にも才能のある人を輩出したのでしょうね。
 
 
 
義連はなかなかの人物だったようです。 (sakura)
2013-11-20 10:42:45
一ノ谷の合戦に参加した時、義連の年齢は19歳といわれていますから、
頼朝が鎌倉入りした時は、まだ少年といってもいい年齢だったのでしょう。
若いのに似合わぬ分別があり、人を説得する力をもっていたと思われます。

畠山重忠、工藤裕経(ひろつね)、梶原景時、小山宗政らは
都に名の知れた楽人でしたし、義連は有職故実にも通じ、
頼朝の面前で意外な才能を披露しましたが、
三浦一族の中にこのような才能がある人物を他に知りません。
 
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