自発的ですのでボランティアで三陸地域に行って来ました。
とは言っても鉄オク(鉄道おたく)の自分には限られたことしかできませんが…
田野畑駅にあるメッセージのひとつ
メインは三セクの三陸鉄道の応援です。
小本駅構内に掲示してあった写真
東日本大震災で岩手県の久慈から宮古さらに釜石から盛までの三陸鉄道が被災し不通となっていました。
全線開通とはなっていませんが、久慈から宮古に至る北リアス線が一部区間を除き運行始めました。
被災しなくても三陸鉄道は赤字線で存続が危ぶまれていました。
田野畑の水門上の事務所が三鉄車両カラーになっています
三鉄車両
鉄オクの私が復興支援で出来る事はまず乗車することと思い乗りに行ったわけです。
一両ワンマン運転ながら、運行中景色の説明があったりと存続への熱意が伝わってきました。
熱意にほだされ赤字解消煎餅や三鉄物語絵本などの応援グッズも購入し、復興支援をしてきました。
ところで一昨年の大震災の4ヶ月後南三陸町まで状況視察に行きましたが、現在では宮古市などは「えっ!震災あったの?」というくらい通常化しているように思われました。
海岸沿いもあの当時はガレキが散乱し、川沿いは津波が上った爪痕がはっきりわかりました。
今は植物も生えガレキも片付けられ、のぼり旗や駅構内の写真からしか当時の様子を伺いしれません。
ただ注意深く観察するとダンプカーが多く走っていたり、高台に仮設住宅があったりと復興途中であることがわかります。
何よりガレキの山が線路脇に時々現れます。
長岡市を始め県内5市でガレキ処理の受け入れが表面されましたが、ガレキの処理無くして復興が進まないのが、改めてわかりました。
ガレキの受け入れに関しては放射能レベルなどがとりだたされていますが、現地では日常の中に山積みされているわけです。
危険なものがそこかしこにあるなら、今の状況自体問題です。
長岡市も中越大震災の時に他市でゴミの受け入れをしてもらったようにも聞いてます。
さらに全国の多くの方々から支援していただきました。
市が安全性を担保するなら一刻も早くガレキ処理の手助けをするべきです。
もちろん地元でも処理してますが、日常のゴミ処理もあるわけです。
国の仕事だ!と逃げるだけでなく共助の力を市町村として出すべきと考えさせられました。
ところである駅の脇では山を削り大規模な道路建設が真っ最中でした。
三陸という人口が少なく減少もこの先進む中で今緊急を要してるのは道路建設なのか?疑問を感じました。
さらに一方では漁村のお母さん方の仕事がないことから、破れた漁網を編んだ「手作りミサンガ」が支援グッズとして売られてました。
思い返せば中越大震災後、一番望んだのは今まで同様な仕事があることだった気がします。
インフラ整備はあるに越したことはありませんが、今必要なのは?まずガレキ処理と仕事のように感じた次第です。
それで自分なりに出来ることとして、市議会で女川町を視察に行った時同様、そこの食堂でご飯食べたりお土産買ったりと同じ使うなら被災地で使ってきました。
それでもお客がきた!とお店の方は喜んでいられました。
そんな笑顔を見ると、一人一人が出来る支援、それが続けられる支援、相手が喜ぶ支援 今一度考えてみる必要があると思いました。
とは言っても鉄オク(鉄道おたく)の自分には限られたことしかできませんが…
田野畑駅にあるメッセージのひとつ
メインは三セクの三陸鉄道の応援です。
小本駅構内に掲示してあった写真
東日本大震災で岩手県の久慈から宮古さらに釜石から盛までの三陸鉄道が被災し不通となっていました。
全線開通とはなっていませんが、久慈から宮古に至る北リアス線が一部区間を除き運行始めました。
被災しなくても三陸鉄道は赤字線で存続が危ぶまれていました。
田野畑の水門上の事務所が三鉄車両カラーになっています
三鉄車両
鉄オクの私が復興支援で出来る事はまず乗車することと思い乗りに行ったわけです。
一両ワンマン運転ながら、運行中景色の説明があったりと存続への熱意が伝わってきました。
熱意にほだされ赤字解消煎餅や三鉄物語絵本などの応援グッズも購入し、復興支援をしてきました。
ところで一昨年の大震災の4ヶ月後南三陸町まで状況視察に行きましたが、現在では宮古市などは「えっ!震災あったの?」というくらい通常化しているように思われました。
海岸沿いもあの当時はガレキが散乱し、川沿いは津波が上った爪痕がはっきりわかりました。
今は植物も生えガレキも片付けられ、のぼり旗や駅構内の写真からしか当時の様子を伺いしれません。
ただ注意深く観察するとダンプカーが多く走っていたり、高台に仮設住宅があったりと復興途中であることがわかります。
何よりガレキの山が線路脇に時々現れます。
長岡市を始め県内5市でガレキ処理の受け入れが表面されましたが、ガレキの処理無くして復興が進まないのが、改めてわかりました。
ガレキの受け入れに関しては放射能レベルなどがとりだたされていますが、現地では日常の中に山積みされているわけです。
危険なものがそこかしこにあるなら、今の状況自体問題です。
長岡市も中越大震災の時に他市でゴミの受け入れをしてもらったようにも聞いてます。
さらに全国の多くの方々から支援していただきました。
市が安全性を担保するなら一刻も早くガレキ処理の手助けをするべきです。
もちろん地元でも処理してますが、日常のゴミ処理もあるわけです。
国の仕事だ!と逃げるだけでなく共助の力を市町村として出すべきと考えさせられました。
ところである駅の脇では山を削り大規模な道路建設が真っ最中でした。
三陸という人口が少なく減少もこの先進む中で今緊急を要してるのは道路建設なのか?疑問を感じました。
さらに一方では漁村のお母さん方の仕事がないことから、破れた漁網を編んだ「手作りミサンガ」が支援グッズとして売られてました。
思い返せば中越大震災後、一番望んだのは今まで同様な仕事があることだった気がします。
インフラ整備はあるに越したことはありませんが、今必要なのは?まずガレキ処理と仕事のように感じた次第です。
それで自分なりに出来ることとして、市議会で女川町を視察に行った時同様、そこの食堂でご飯食べたりお土産買ったりと同じ使うなら被災地で使ってきました。
それでもお客がきた!とお店の方は喜んでいられました。
そんな笑顔を見ると、一人一人が出来る支援、それが続けられる支援、相手が喜ぶ支援 今一度考えてみる必要があると思いました。