常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

アマリリス

2019年03月31日 | 

アマリリスが咲いた。本来、春の終りに咲く花だが、鉢をエアコンの吹き出しの近く置いたために花期が早まったのであろう。トキ色の懐かしい色の花だ。もう亡くなって10年も経つ人からいただいた花だ。名はタマちゃんと言って、産婦人科で長く助産婦をしていた人だ。この花が咲くたびに、生前のタマちゃんを思い出す。妻の友達なのに、一緒に連れ立って、笹谷にタケノコを採りにいき、その山を散策した。食事に誘われて、寿司や中華料理をご馳走になったこともある。花が咲くたびに、こんな楽しい時間を思い出させてくれるのは、ありがたい限りだ。

何故か身のまわりに故人になった人の花が置かれている。今年亡くなった妻の友人からは、ベニサンゴの鉢を貰った。この鉢は、友人が夫を亡くして元気がなくって行ったのに反比例して、花を増やして株が大きくなった。そのため植え替えた鉢は二つに増えている。花や鉢植えの寿命は本来、人間の寿命より短いのだが、鉢のなかで長生きすることで、その人の思いでのよすがとなってくれる。今月、亡くなった義母が育てていた華鬘草は、裏の花畑に移植した。新しい芽を吹き、春の陽光とともにあの可憐な花を咲かせてくれるだろう。花は良い思い出だけを残してくれる。

先日、長いつきあいであるSさんが、転倒して入院していると聞いた。この人からは、シンビジュームの鉢をいただいた。このブログでも以前紹介しているが、毎年見事な花をつけて楽しませてくれた。この鉢は一昨年、鉢いっぱいの花を咲かせたが、力尽きるようの枯れて行った。あの花がいなくなって淋しい気がする。いま咲いているクンシランも、妻の友人からいただいたものだ。身近な人の死が続いているので、この人にはぜひ回復をして欲しい。

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弥生尽

2019年03月30日 | 日記

日が経つのが早い。今年は天皇陛下の退位に伴う改元があるので、その感はいよいよ強い。しかし、ここに来て寒気が入り、北の地方では春の雪になっている。弥生尽というのは、陰暦のため3月末を指すのでなく、陽暦の四月尽と同義だと、俳句歳時記には書いてある。本来春を惜しむような言葉だが、この寒気で早咲きのラッパスイセンも、ややかじかんだ感じである。桜前線の北上も、少しそのスピードをゆるめているように見える。畑仕事へのモチベーション、あまり上がってこない。

林中に菓子ひらく香や弥生尽 堀口 星眠

球春が始まった。高校野球も日本のプロ野球も、メジャーリーグもほとんど同時進行なので興味深い。メジャーリーグなら、日本出身の大リーガーの活躍を見守り、国内では球団が地域代表的な存在になっているので、地元のチームを応援する人が多いようだ。だが、野球でも、相撲でも応援することはあっても、勝敗は自分の人生には何の関係もない。技術を身につけるために努力する姿を見ることに意義があるような気がする。

作家の村上春樹は、ヤクルトスワローズのファンであることで有名だ。昔のスワローズは弱く、敗けて当たり前、勝てばラッキーという気持ちで応援していたらしい。ファン心理が昂じて、常勝球団であれ、というような応援のあり方は、どこか違っているのではないか。必勝を目指して、びっくりするような補強をした常勝軍団の再来を目指すジャイアンツが、開幕の初戦で広島に負けたのは、何かすっきりした気持ちになるのは少数派であるということか。

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武士道

2019年03月29日 | 日記

 

このほど、大相撲の大関に推挙された関取・貴景勝が、使者に述べた口上が話題を呼んでいる。「大関の名に恥じぬよう、武士道精神を重んじ、感謝の気持ちと思いやりを忘れず、相撲道に精進して参ります」と述べ、その核に武士道という言葉を選んだ。この言葉はかつての武士が重んじた、儒教の道徳を基礎としているため、一見古めかしいような響きがある。しかし、明治になって、日本は西欧の芸術や技術を積極的に取り入れてきたが、その精神のバックボーンはこの儒教の道徳であったことを忘れてはならない。

北海道で農学を学び、教育家であった新渡戸稲造は、アメリカ、ドイツに留学し、教育学を学んだ。キリスト教徒となりアメリカの婦人と結婚、帰国して北海道大学で教鞭をとった。アメリカ在留中に、日本の教育に宗教関係の学問が欠けていることを指摘され、新渡戸が書いたのが『武士道』であった。この本は、英語で書かれ、日本理解の書として評価され、ルーズベルトやJ・F・ケネディの愛読書となったことでも知られている。

新渡戸は武士道を山に例え、麓の緩やかな傾斜から、急峻な頂上まで5段階に分け、一番の低いところに体力にまかせ獣力だけを誇る匹夫の輩を最低の武士と位置付けている。その上に住むのは、残虐さは消えるが、戦場で勇敢な下士となるが、平時は厭われる俗吏。その上は、傲慢の姿勢が抜け、書を読み多少の教養を身につける。しかし、上級者には窮屈だが、下の者には威張るという性癖がある。その上にあるのは将軍たちであり、思想行為の指導的な階層だ。柔和よりも厳粛が特徴だが、彼らの言葉はその場で記憶されるのみで、学ぶ者のうちに生きて残留しない。

峻険な山径を攀じ登って至高の地には、武士の最高の者がいる。彼らは貴賤、大小、幼老、賢愚と等しく交わり、愛情はその目より輝き、その唇に震う。学を衒わずして教え、恩を加えずして保護し、説かずして化し、助けずして補い、施さずして救い、薬餌を与えずして癒し、論破せずして信服せしむ。

新渡戸は『武士道の山』のなかで、このように述べ、この境地はキリストの徒のものと通づるものがあると述べている。貴景勝の口上は、短い。しかし、その奥を探れば、この精神を重んじながら、自らを究めていく道のりは、長く厳しいものである。

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花の名

2019年03月28日 | 日記

春になって、スマホを片手に朝の散歩をすると、毎日春の花が咲きだしているのに出会う。こんな毎日を送るようになって花の名を知ることは、基本知識として必須である。ブログを読んでいて、知らない花の名を、ことも無げに書いている人の記事を読むと、ただ敬服するばかりだ。花の図鑑を買ってみた。そのページを開くと、外来の花の名ばかりが目に付く。植物だけのことではないが、この国では外来の種が、日本古来の在来種を片隅に追いやり、わが世の春を謳歌している。セイタカアワダチソウだけでなく、花壇でも外来種が、大きく勢力を伸ばしている様子が、図鑑からも読み取れる。

 

山の仲間にも、高山の花に興味を持ち、図鑑の持参して、いつも花の名を確認している人がいる。3年も経たないうちに、ほとんどの花を覚え、花の名をいち早く告げる先生になった。山の環境を選んで繁殖する高山植物を観察することは、山の自然の特徴を認識していくしるべにもなる。高山の花の前線は、高度によって上がっていく。里近くで見る春の訪れも、すこし高度を上げれば、枯れ枝の山から、積雪のある冬と、季節が混在する。

スマホのカメラに便利な機能がついている。撮った花の写真の名を知りたいとき、ワンタッチで花の名を書いたアプリが起動できる。この機能で、黄色いバラのような花が、黄梅であることを知った。「みんなの花の図鑑」などのサイトへ投稿しなくても、即花の名を知ることができる。ただしこの機能には弱点もある。雨の上がったばかりで香る沈丁花を、このアプリで見ると、「桐の花」と出てくる。紫の、しかもあの背の高い桐と沈丁花を何故間違うのか、ちょっと残念な気がする。

昨夜からの雪と雨で、咲いた花たちに露でしとどに濡れている。花をこよなく愛でた清少納言の『枕草子』の記述が思い起こされる。その観察眼は濃やかで、筆致も冴えわたる。

「いと色ふかう、枝たおやかに咲きたるが、朝露にぬれてなよなよとひろごりふしたる、さ牡鹿のわきて立ち馴らすらん、心ことなり。(中略)すこし日たけぬれば、萩などいとおもげなるに、露の落つるに枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへあがりたるも、いみじうおかし。」

雨上がりや朝露にぬれて、花の重たげなようすを観察し、その花の一瞬の動きからも目を離さずに見まもる古代の人の眼は、今の時代もこの国の人々に、残されているように思われる。 

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旅情

2019年03月27日 | 日記

佐藤春夫に「犬吠埼旅情のうた」がある。島崎藤村に、「千曲川旅情のうた」があり、これら大正の詩を読むと、その時代の詩には旅情のなかで、人間の存在へのいつくしみのような感情が詠みこまれている。

ここに来て

をみなにならひ

名も知らぬ草花をつむ。

みづからの影踏むわれは

仰がねば

燈台の高きを知らず。

波のうねうね

ふる里のそれには如かず。

ただ思ふ

荒磯に生ひて松のいろ

錆びて黝きを。

わがこころ

錆びて黝きを

犬吠埼の波の打ち寄せる海辺に来て見出したものは、荒磯に向かって立つ松の葉の黒さである。その色は、みづからの心の色を映している。若き日の青年の憂鬱の心の色である。


来週、新潟の角田岬を訪ねる。そこで、早春の花を見、日本海の海を目にする。詩人の心をこの旅で、思いあてる術もないが、自らの老いを確認することはできる。私にとっての山旅は、人生の旅路を彩るひとこまである。そこで見る花、景色。仲間と語る言葉、どれもがいとおしいものとなるであろう。


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