常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

百花仙子

2019年03月26日 | 日記

彼岸も過ぎて、朝の散歩は、垣根や花壇の花を見る楽しみが増えた。室内では、クンシランが2回目の花芽が頭をもたげ、アマリリスの花芽が大きく成長した。この分では、数日後には、室内の花を楽しむことができる。雪景色から色とりどりの花の季節へ、人が花を愛する気持ちはよく理解することができる。関東では、桜が開花し、この花を求めて、多くの外国人が訪れている。桜を顔に近づけて、写真を撮っているのは、中国から来た人が多いような気がする。

 

中国に百花仙子という伝説がある。仙子とは仙女で、女神と理解すればよい。花仙子は、花の女神で百花仙子とは、百人の花の女神ということになる。8世紀、唐の時代に絶大な権力を握った女帝・則天武后がいる。武后は、国の中で権力をふるっただけでなく、仙女たちをも自由に操る力をもっていた。まだ牡丹雪が冬の日、則天武后は山に雪景色を見にでかけた。どこに行っても白一色の雪、武后は満足できなかったので、百花に一斉に咲くように命じた。

驚いたのは、人間界の帝王から命を受けた花仙女たちである。すぐに百花仙子の会議を開き、対応を協議した。ほとんどの花仙子は、武后の力を恐れ、命じられた日限に花を開いた。ただ、花の王である牡丹だけは、この命じに従わなかった。その日が来ると、白一面の雪のなかで花が咲き乱れ、そのみごとさに武后も見とれた。だが、百花の王である牡丹の咲いていなことを見逃すことはなかった。激怒した武后は「炭火で牡丹を焼き払え」と、側近に命じた。

牡丹の葉という葉、枝という枝が焼き焦がされた。牡丹はたまらず、黒く焦げた枝から花を咲かせた。さすがは主役の牡丹である。その紅い花は、背景の雪に映えて、みごとな花園になった。だが、武后の怒りはおさまらない。牡丹を長安から追放した。牡丹が移り住んだのは洛陽である。以後、牡丹は洛陽の名花として知られるようになる。

ものの本によれば、この花の伝説に花の促成栽培の技術革新があるということである。武后が命じたのは、仙女ではなく、唐の花栽培師たちである。漢の頃には、すでに保温効果で、花を早く咲かせる技術が開発されていた。栽培師たちは、競って雪の季節に花を咲かせることに挑んだが、牡丹だけは、開発が間に合わなかったらしい。今では、ここ山形で夏のサクランボを、正月に出荷する技術が完成している。

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山茱萸

2019年03月25日 | 

朝、西の空に半輪の月がかかった。近所のお宅の庭には、春を告げる山茱萸の花が咲く。この間、ある人がこの花を見ながら、「庭のサンシュの木鳴る鈴かけて」と宮崎県の民謡のひえつき節を口ずさんだ。多くの人が、この花を見て、「ひえつき節」で唄われている花と思っている。しかし、民謡で唄われているのは、サンショウの木で、この山茱萸と違う、と図鑑には書かれている。


昨日、詩吟の「青少年吟詠大会」。合わせて、連吟コンクールの県大会が開かれた。山形岳風会チームと出吟するも、予選突破はならず。捲土重来を期す。今年、新しい仲間との挑戦であったが、こうした活動で生まれる新しい人間関係を大切にしたい。同じ目標で、練習を重ねていくうちに生れる人間関係は、この年代になってみると、かけがえのないものに思える。吟題は「咸陽城の登楼」。一たび高城に登れば万里憂う、歴史の街を旅する人の心が懐かしい。 

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白太郎山

2019年03月23日 | 登山

山には色々な名がある。白太郎山、不思議な名だ。今日、雪の降る中、この山に登って、その意味が分かった。西置賜郡小国町、ここは住み慣れた山形から見て、別世界である。今日、寒気が入って、雪模様の天気になったとはいえ、山形近郊はどこを見ても、雪はない。蔵王、月山、葉山などの高山を除けば、桜の花が待ち遠しい春の景色だ。国道113号線を新潟に向かって西進すると、飯豊付近から、雪景色となる。どんな低山にも、積雪は残り、残雪が目を射るように美しい。


目指すは小国町五味沢。ここから、名山祝瓶山があり、その奥には大朝日岳があり、つまりは朝日連峰の縦走路に続いている。徳網集落は、狩猟と林業、山菜などが生活の基盤であった。南には飯豊の山塊が控え、新潟の大境山、鷲ヶ巣山も指呼の間である。近年はこの山村で観光ワラビ園が開かれ、山形などから、多くの人が訪れるところでもある。

6時に上山を出発して、登山口に着いたのは7時40分。準備運動をして登り始めたのは8時であった。集落の道路わきの民家の横を登っていく。家のご主人に挨拶をして、道を尋ねる。「その辺から登って」と指さす方向には、数日前のトレースが見えて心配がない。ここ数日の冷え込みで、残雪は凍結してツボ足歩行が可能だ。今朝がたの雪が、数センチ積もり、雪は雲りでも白く輝いている。登山口の高度253m。ここから、杉林を抜けやや広い尾根筋を、高度766mまで登り詰める。ここまでの所要時間は2時間。傾斜のきついところでアイゼンを履いたため、歩行が安定する。休憩はほぼ4回、30分に1回の計算だ。


曇り空で写真は撮れない。残雪の雪山の景色は、ぜひカメラに収めておきたいところだが、今回の参考ではスマホでその雰囲気を伝えるショットだけにする。振り返れば、徳網岳の秀麗な姿(冒頭の写真)が目に飛び込んでくる。766mピークまで、時々雪。風もなく、汗をかいた人は、上着を脱ぐ場面もあった。

ピークから頂上まで、標高差240m、距離にして800mだ。ここからコブのようなピークが4つある。雪が降り始め風がつよくなった。小さなコブを登ろうと試みて、段差が氷っていて前に進めない。少し迂回して進む。11時50分、頂上に着く。なだらかな頂上だ。その名が示す通り雪で覆われた、白い山だ。小国の街の人達は、この季節、ここで町民登山をする。この里で生まれ育った人には、慣れ親しんだ風景であろう。左右に見えていた残雪の山々が、雪に振りこまれて次々と姿を消していく。頂上では長くとどまらずすぐ下山を開始する。


少しの時間ですでに、先刻歩いたトレースがかき消されている。尾根道がやや広いので、GPSのトレースを確認しながら下る。たちまち雪があがり、さらにきれいな雪景色になる。ブナの木々が美しい。風が止み、尾根の下りは快適だ。広いところにとどまり、車座になって昼食。雪の上のでは、カップラーメンが軽くて便利。しかも冷えた身体を暖めてくれる。まんぷくが、朝ドラになっているが、この発明が改めてすごいことと知らさせる。


本日の参加者7名。内女性3名。雪の上を歩くのも、シーズンが終わりつつある。快晴なら、もっと素晴らしかっただろうが、一歩一歩季節の感じを、身体のなかに刻みながら歩く。やはり、山歩きは、身体が言うことをきく間は、続けていきたい趣味である。こんな急な坂を登ったのかと思うほどの、きつい勾配の斜面を下る。登山口に着いたのは2時30分、昼食の時間を除くと、下山には2時間を要したことになる。

ふかぶかと眠る山みな無名なり 堀口 星眠


 

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倚りかからず

2019年03月22日 | 日記

詩人の茨木のり子がこの世を去ったのは、2006年2月17日のことであった。西東京市の自宅で、脳動脈瘤に破裂であった。急逝を見つけたのは友人であったが、枕元に遺書が用意されていた。「私の意思で葬儀・お別れの会はいたしません。あの人も逝ったか、と一瞬、たったの一瞬思い出してくださればそれで充分でございます。」享年79歳であった。

 

1975年、45歳のとき、最愛の夫が他界し、その後弟、詩の仲間たちが亡くなって孤独になっていった時書いた詩が「依りかからず」であった。孤独ななかで、毅然として自己を律する詩は、大きな反響を呼んだ。この時、茨木は73歳であった。

もはや

できあいの思想には依りかかりたくない

のフレーズで始まる詩は、宗教、学問、権威などを否定し、最後に「依りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」と締めくくっている。この詩集が15万部ものベストセラーになったのは、彼女の生きざまへの、共感と支持があったためである。そこには女性の自立という社会的は背景があったと思われる。

 

しかし、茨木の詩の代表作は「わたしが一番きれいだったとき」である。茨木は19歳という青春のどまんなかで、終戦を迎えた。ネットで茨木の写真を検索してみると、この詩が気障な表現でなかったことが分かる。モノクロ写真で見ても、茨木は十分に美人であった。

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがらと崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争に負けた

そんなばかなことってあるものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 

この詩に茨木は戦争への怒りをつめこんだ。22歳の時、山本安英に出会い戯曲を書き、童話を書いた。23歳の時、医師の三浦安信と結婚、所沢に住んだ。

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星新一

2019年03月21日 | 日記

蔵王の残雪が輝き、桜の開花が報じられる季節なのに、変な話だが、朝早く目が覚めでたのでユーチューブで星新一の「ショートショート」を聞いた。題は「サンタクロース」。クリスマスの夜、恋人のいない青年の家を訪れたサンタクロースが、「何か欲しいものは?」と聞いた。青年は、淋しいクリスマスが癒されるように、恋人と答えたかったが、少し恥ずかしくなって、近所で病気で淋しく寝ている少女がいたことを思い出し、その少女を慰めて欲しい、と頼んだ。

少女はサンタクロースが、ある人に頼まれて来た、というと「私にはどこかで私を見守ってくれている人がいる」ということに満足し、サンタクロースのプレゼントを断り、金貸しのおじさんは、きっと私より淋しい思いをしているはず、と思いそこへ行くように頼んだ。少女は、知らない人の親切で、病気から抜け出せるような気になった。

サンタクロースが来て、金貸しのおじさんは、「金をプレゼントしてくれるのかね」と聞いてみた。サンタクロースは「もちろんです」と答えた。金貸しおじさんは、頭のなかで、金額を想像した。だんだんと、その金額が多くなっていく。突然、おじさんは、自分は十分お金を持っていたことを思い出した。物や金でなく、心が豊かになることを頼んでみたくなった。孤独から、この世の終りを企んでいる男がいる。その男を慰めて欲しい、と頼んだ。

その男のところへ行った時、クリスマスの夜は明けかけていた。男はピストルでサンタを撃った。しかし、どの玉もサンタを逸れて飛んで行った。サンタに違いないと悟った男は、この世に自分を気にかけている人の存在を知り、憎しみの気持ちが、心の内から抜け出した行った。サンタは、「夜が明ける。来年また来ようかね」と言うと、男は「いいや、俺のことはいい別のところへ行ってくれ」

サンタクロースの話は、季節を問わず、老若を問わず、人の心をほっこりさせてくれる。

 

 

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