常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

雪晴れ

2021年11月28日 | 日記
連日の雪もようの空が続いて、さすがに青空が恋しい。贅沢にも温泉で温まってから空を見上げると、雲がとれて青空が広がった。姿を現したのは、新雪の瀧山。毎年この季節に見ている光景だが、一年振りで見る新雪の瀧山は輝いていて、新鮮な感動を覚える。その一方で、この景色に溶けこんだ山中では、自然にさらされて心細い冬の暮らしもある。

み雪ふる片山かげの夕暮れは
 心さへにぞ消えぬべらなり 良寛

心が消えるとはどういう状態か。風前のともしびという言葉がある。国上山の庵のなかでは、灯火が消えそうなこころもとない状況を詠んでいる。現代ではそのような心配もなく暖かい部屋のなかで冬を送るが、その生活を維持するためにどれほど地球環境が傷んだか。人が生きるということの陰に、犠牲になったものは少なくない。せめて、明治の唱歌に思いを馳せたい。

燈火ちかく衣縫う母は
春の遊びの楽しさ語る。
 居並ぶ子どもは指を折りつつ
 日数かぞえて喜び勇む。
  囲炉裏火はとろとろ
     外は吹雪。
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雪の日のマルシェル

2021年11月27日 | 日記

冷たい雨から雪へ。すぐ近くの千歳山や三吉山に雪が来た。雲の間から顔を出す三吉山は険しい表情になった。今年は雪が早く、積雪も多くなるらしい。雪国生まれの身には、必ずやってくる季節だが、この時期には何か覚悟のようなもの持ち、身構えて冬を迎える。雪をどう楽しむかは、老後の大きな課題になる。雪の里山で、雪を踏みながらの山登り。ひっそりとした山あい温泉で、湯を楽しみながら時を過ごす。そんな思いとは裏腹に、冬将軍のいかめしさに弱気になっている自分がいる。

玄関のチャイムが鳴って、注文していたマルシェル「農カフェ」から野菜の詰め合わせが届いた。サツマイモ3種、里芋、ジャガイモ、キャベツ、白菜、セロリ、ワサビ菜、カリフラワー2個、レタス、カボチャ、糸カボチャ、柿2個。サツマ芋には寿、太白という珍しい品種。キャベツにはとくみつという妹子お勧めの品種で、生で味わって欲しいとコメントがついている。送料こみで、大きなダンボールでずっしり。新鮮さ、玄関に来る手軽さ、野菜の知識いっぱいのカフェ主人の心遣い。これからの野菜の入手方法は、これもありと思える。早速、サツマイモの寿を蒸かして試食、懐かしい味がした。ネットのおかげで、対面の八百屋さんで話ながら品選びをすることが離れていても実現できる。

午後になって霙が落ちて来た。腰痛に悩む妻をつれて温泉のひととき。本格的な冬が駆け足でやってくる。

鳥も木もうたがひぶかく雪催 千代田葛彦
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迦陵頻伽

2021年11月25日 | 日記
迦陵頻伽。想像上の鳥で、極楽に住んでいて、顔は美女、身体は鳥の姿で、声は美しく仏法を説くという。ヨーロッパの人魚伝説を彷彿させるが、死と隣り合わせの現世で想像した美しい鳥である。もうこんな鳥の話をする人もいないが、初めてこの鳥の名を知ったのは、斎藤茂吉の歌集を読んだときだ。

とほき世のかりょうびんがのわたくし児田螺はぬるき水恋ひにけり 茂吉

茂吉は田に住む田螺を、かりょうびんがの生まれ変わりと想像をふくらませている。泥のなかで生き、声もだすこともない田螺だが、水ぬるむ季節はこの生きものには極楽のような環境を想像したのであろう。

先日、『お伽草紙』の現代語訳を読む機会があった。円地文子の訳で「梵天国」というのがある。梵天は帝釈天と並んで天井世界で、地上の上層を守護する世界である。欲界を離れ、そこは寂静清浄の世界である。この世界も、地上に住むものには憧れの地である。「梵天国」というお伽話では、地上に住む金持ちがあらゆる富を蓄えたが、子どもにだけは恵まれなかった。そこで清水寺で礼拝して、子を授けてくれように祈り続けた。

仏が聞き届けてこの地上の金持ちに授けたのは、そっと袖に入れた玉であった。それを授けられてからほどなく奥方が懐妊して玉のような王子が生まれた。やがて母が死に、父も身罷ったが王子はすくすくと育ち、帝の知己も得て美しい笛を吹く青年に育った。梵天国の王は、この子を憐み、自らの娘を地上へ嫁がせた。地上の帝は、欲張り爺のような存在だ。この王子に位を与え、天井の姫をなんとか自分のものしたいという邪な考えを抱く。王子を宮殿に呼び出して次々と難題を持ち出してくる。先ず所望したのは、梵天に住む迦陵頻伽と孔雀を連れてきて、踊りと歌で余を慰めよというものである。姫は、迦陵頻伽の声を出して呼び出すと、誰も見たことのない美しい鳥たちが7日間舞い続けた。

帝の要求は次第につり上がってくる。人間の心の醜さが、この要求に籠っていた。最後には、要求に応えながら、窮地にたちながら二人は愛をつらぬくハッピーエンドで終わる。江戸時代、浄瑠璃などで、梵天を話すことが流行った。梵天国はネタの最後を飾るので、梵天が始まると、浄瑠璃も終わりの合図のような言葉になっていった。
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山茶花

2021年11月24日 | 
冷たい雨が降り続く。午後になって、少しばかりの止み間を見て外出した。マイルを入れてから、外で歩かないとどうも気になる。目の前に咲き盛りの山茶花。こんな寒い日に、縮こまることもなく咲く姿に元気をもらう。ふと目を上げると、瀧山にかかっていた雪雲がとれて、姿を見せた山肌は白く雪が見えている。初冠雪は月初めに終わっているが、自分の目で瀧山の雪を確認するのはこの冬初めてである。

山茶花のこぼれつぐなり夜も見ゆ 加藤楸邨

山茶花は白花を愛でるものらしい。赤やピンクは、この季節にそぐわないと考えることも頷ける。だが、ちぢれてたような返り花を見るなら、白でなくとも木枯らしの季節に小春の色を見せてくれるのはありがたい。北海道の朱鞠内では、この半日に70㌢もの積雪である。この寒い季節を越すことができない命もある。この花に元気をもらうことを老いの身の喜びとしたい。

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虎落笛

2021年11月23日 | 登山
時雨というか、荒れ模様というか、冬の雨まじりの強風が建物の角に当り、虎落笛の聞こえる一日であった。歳時記には、虎落笛を冬の厳しい風が柵や竹垣などに当って笛の音を発すると説明している。古代にはもがりは殯と書き、人が死んでから本葬までの間、屍を安置しておく場所を指している。仮喪のことである。高貴な人は殯宮として立派なものが造られたが、一般には竹竿などを組んで簡易な仮置き場であったらしい。これらの竹の柵に冬の冷たい風があたると、安置された霊魂が悲しみの声をあげていると想像したのかもしれない。

樹には樹の哀しみのあり虎落笛 木下夕爾

捥ぎ手がなく、葉の落ちた木に捨てられたように生る柿の実もいかにも寂しい光景である。時雨のなかを歩いて、見つけるものは、いずれも冬が来ることを告げている。そんななかで、辛夷の樹に春に咲かせる花芽をつけたがうれしい発見であった。
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