迦陵頻伽。想像上の鳥で、極楽に住んでいて、顔は美女、身体は鳥の姿で、声は美しく仏法を説くという。ヨーロッパの人魚伝説を彷彿させるが、死と隣り合わせの現世で想像した美しい鳥である。もうこんな鳥の話をする人もいないが、初めてこの鳥の名を知ったのは、斎藤茂吉の歌集を読んだときだ。
とほき世のかりょうびんがのわたくし児田螺はぬるき水恋ひにけり 茂吉
茂吉は田に住む田螺を、かりょうびんがの生まれ変わりと想像をふくらませている。泥のなかで生き、声もだすこともない田螺だが、水ぬるむ季節はこの生きものには極楽のような環境を想像したのであろう。
先日、『お伽草紙』の現代語訳を読む機会があった。円地文子の訳で「梵天国」というのがある。梵天は帝釈天と並んで天井世界で、地上の上層を守護する世界である。欲界を離れ、そこは寂静清浄の世界である。この世界も、地上に住むものには憧れの地である。「梵天国」というお伽話では、地上に住む金持ちがあらゆる富を蓄えたが、子どもにだけは恵まれなかった。そこで清水寺で礼拝して、子を授けてくれように祈り続けた。
仏が聞き届けてこの地上の金持ちに授けたのは、そっと袖に入れた玉であった。それを授けられてからほどなく奥方が懐妊して玉のような王子が生まれた。やがて母が死に、父も身罷ったが王子はすくすくと育ち、帝の知己も得て美しい笛を吹く青年に育った。梵天国の王は、この子を憐み、自らの娘を地上へ嫁がせた。地上の帝は、欲張り爺のような存在だ。この王子に位を与え、天井の姫をなんとか自分のものしたいという邪な考えを抱く。王子を宮殿に呼び出して次々と難題を持ち出してくる。先ず所望したのは、梵天に住む迦陵頻伽と孔雀を連れてきて、踊りと歌で余を慰めよというものである。姫は、迦陵頻伽の声を出して呼び出すと、誰も見たことのない美しい鳥たちが7日間舞い続けた。
帝の要求は次第につり上がってくる。人間の心の醜さが、この要求に籠っていた。最後には、要求に応えながら、窮地にたちながら二人は愛をつらぬくハッピーエンドで終わる。江戸時代、浄瑠璃などで、梵天を話すことが流行った。梵天国はネタの最後を飾るので、梵天が始まると、浄瑠璃も終わりの合図のような言葉になっていった。