常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

新緑

2023年05月03日 | 論語
パソコンの待ち受け画面が、新緑の森になった。公園の木々の緑も、いつか夏の息吹を感じさせる。昨日、燕が飛んでいると思った。一瞬であったので、はっきりとは確認できない。『日めくり 四季のうた』の窪田空穂の歌が、昨日見た光景を詠んでいた。

つばくらめ飛ぶか見れば消え去りて
空あをあをとはるかなるかな

たったひとときの詩の心に触れる瞬間。心のうちに、さわやかさを感じる。一日に数章読む『論語』が終りに近づいた。高橋源一路の論語教室だ。なるほど、これほど噛みくだいてくれれば、論語がにわかに身近になる。

419子曰く、辞は達するのみ
「ことばや文章は、相手にこちらのメッセージが伝われば、それで十分です。美しい文章、人を驚かせる文章を書く必要などありません」 
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光禅寺

2023年04月11日 | 論語
久しぶりに光禅寺を訪ねた。家の近くの桜は終わりに近づいたが、この寺の枝垂桜と参道の老木がわずかに花を残していた。義母が元気であったころは、この寺の庭を散策することが好きであった。年を経て、庭の花木もだんだんn少なくなっている。池の水はなく、これから花期を迎える牡丹の花芽が伸びつつあった。庫裡のあたりに植えられているオキナグサが、はやくも花を咲かせていた。

外へ出たとき寄り道の定番はブックオフである。100円~200円の棚を中心に、興味のある分野の本を見つけるのが楽しい。思わず新書の棚で手をのばしたのは、高橋源一郎『一億三千万人のための論語教室』。最近ブックオフで買った孔子関連の本は、加藤徹『本当は危ない論語』、井上靖『孔子』とあわせて3冊目だ。高橋はこの本を書くために20年の時間を費やしたと語っているが、80歳を越えた今日まで、論語関連に興味が尽きないのは、その本質をいまだに理解できないためである。

「学んで時に之を習う、亦た悦ばしからずや」誰もが教科書で最初で目にする論語の最初の言葉だ。声にだして、この句を暗記する勉強法をとってきた日本人は、その意味を性格の認識しないまま読み進めてきた。孔子の家は学校のような造りになっていた。時間を決めて、弟子が集まり温習会を開く。みんなで集まって一緒に勉強しているときは楽しいね。この言葉が話された場所、背景が分かるように書かれている。温習会から、友人が遠くから訪ねて久闊を除す楽しみ、そして友達との付き合い方へと話が広がる。高橋が試みた論語の読み方は、一気に現代の舞台に登場した感がある。
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端午の節句

2022年05月05日 | 論語
この間、季節はずれの雪が降って、今度は梅雨時のアイリスが咲いた。このごろ、いつもと違う頃に、気象現象が起きている。季節はずれと思っているうちに、その方が通常になりつつある。5月5日は、端午の節句。端は初め、午はうまの日。初めてのうまの日という意味だ。旧暦では、もう夏の暑さがきて、疫病が蔓延する時期でもある。菖蒲の葉を刻んで、酒にうかべて飲む風習は疫病を払うためのものであった。菖蒲を尚武と読み替えて、逞しい男の子の節句にしたのは、富国強兵の国策の延長にある。

沸きし湯に切先青き菖蒲かな 中村汀女

菖蒲湯に入った子供たちは、その後どのような人生を歩んだであろうか。自分の軌跡を顧みると、忸怩たるものがある。論語に「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども矩を踰ず」

七十を超えてからの仕事の極意は、「芸に遊ぶ」ということである。芸とは3000年前の古典の世界に遊ぶ。自然の摂理になかに身を置く。そしてそれらを楽しむことができれば、最高の境地となる。ほんの一握りの碩学が辿りついて境地である。
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耳順

2020年03月03日 | 論語
今日は雛まつり、3と3に掛けて耳の日でもある。論語に耳順という言葉がある。「五十にして天命を知り、六十にして耳順(した)がう。」50歳になって人間の力の限界を知り、60歳になると何を聞いても腹が立たなくなった、という意味である。一般には人の言葉を素直に聞く度量ができた、という解釈が多い。しかし、孔子の生涯を見てみると、自分の考えた理想の政治が、当時の国の君主に聞き入れられず、この年代になってから、諸侯を訪ね歩き、受け入れる君主を探す放浪の旅に出ている。

多くの弟子を引き連れ、孔子の放浪は過酷であった。どの国へ行っても、孔子を受け入れてくれる君主はいなかった。「鳳鳥至らず、河は図を出さず。吾れ巳んぬるかな。」鳳凰、河図。いずれも、孔子が求めた理想の社会である。それを求めた14年に及ぶ放浪の旅に見切りをつけた孔子の言葉である。下剋上の乱世は終わりを見せず、老いがさらに孔子を追いこんいく。深い絶望の内に、孔子は故国へ帰った。かって孔子を敬った人物が、魯の国の大臣に就いた時期でもあった。晩年の孔子は、五経の編纂に打ち込んだ。弟子たちの教科書としてであるが、後の世の偉大な教科書となった。


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孔子の晩年

2020年01月03日 | 論語
六十にして耳順う、七十にして矩を踰ず。孔子は自らの生涯のうち、その晩年をこんな言葉で表した。孔子は中国の春秋時代、紀元前442年魯の国に生れた。諸国が分立し、下剋上が方々で起こる乱世であった。人倫は地に落ち、政治は千々に乱れた。貧しい家の子に育った孔子は、学問を修め、三十代には優秀な学者として認められるようになった。孔子を慕う弟子も増え、人望は国の内外で高まっていった。世の中を正し、政治を担うことに熱意を持った。一学者を、そう決心させるほどに、世は乱れていた。三十にして立ち、四十に惑わずの年代である。

五十五歳の孔子は大きな転機を迎えた。盧の君主定公が、名声高い孔子を、国の大司寇(法務大臣)に抜擢したのである。その時、政治の実権は三桓と呼ばれる公族の三家が握り、国の政治をほしいままにしていた。定公は孔子を登用して、この三桓を抑え、自らの力を回復することを期待したのである。孔子は、この国にかっての周王朝の時代の政治を取り戻そうと懸命の努力をした。孔子の理想が高いほど、実際の政治を握る三桓の壁は厚く、これを破ることに失敗してついに国を去ることになった。一学者の説く理想論や力では、力の及ぶところではない。五十にして天命を知る、すなわち自らの力の限界を知ったのであった。

国を去った孔子が次にとった行動は、中原に乱立する諸国を、遊説して「仁」と「礼」の政治を説いて、受け入れてくれる君主を探すことであった。論語に現れる魂の叫びは、この苦難の時代に多く吐かれた。実に14年間、時には迫害を受け、暴漢に襲われ、食べるものさえない苦しい遊説の旅であった。元気者の弟子の子路さえが、弱音を吐く苦しさであった。その苦難のなかで、孔子は泰然自若として仁、人間への愛、そして文学、音楽を語った。しかし、そんな年月を過ごしても孔子を受け入れてくれる国はなかった。深い失望のうちに、放浪の旅を終え、孔子は魯に帰る。かって、孔子を尊敬していた季康子が総理大臣の地位につき、その呼びかけに従ったのである。耳順とは、その言葉は聞き入れたことを意味するのであろうか。時に孔子は、七十歳を迎えようとしていた。

73または74が孔子の死んだ年であるが、このほぼ5年間、古典である五経の編纂に力を尽くした。先ずは弟子たちの教材として、さらには後世の人々への教材として残すことである。詩経をも今日に見られるように編纂した。

孔子の死に臨んで、ひとつの伝説がある。ある朝、孔子は早朝に目を覚ました。手を後ろに組み、杖をひきづりながら散歩した。そして、こんな歌を歌った。「泰山はそれ頽れんか」ああ、あの大きな山が崩れそうだ。「梁木はそれ壊れんか」家の梁が落ちてくる。「哲人はそれ萎んか」と歌って家に入った。聞きつけた弟子の子貢が、先生の死が近づいているのではと不安になり、大急ぎで師の家に駆け付けた。子貢をみて
孔子は「子貢よなぜもっと早く来なかったのか。昨夜、わしは夢を見た。この座敷の真ん中でごちそうを貰う夢を見た。」そのごちそうは死者に備えるごちそうを意味しいた。その日から病床について孔子は七日間昏睡して死についた。
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