常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

衣がえ

2016年05月31日 | 日記


今年のように5月に暑い日が続けば、クールビズで職場に出勤する人も多い。衣がえは旧暦で4月1日に行われた行事で、宮中では衣服ばかりでなく室内装飾から几帳にいたるまで、生活用品が夏用に替えられた。女御、「更衣」と言うのは天皇の奥方で、天皇のころもがえつかさどる女官の呼び名であった。このため更衣というのは一般には使われず衣がえというようになったようである。

6月1日に夏ものに、10月1日に冬ものに替えると、定められたのは明治時代になってからである。学校に生徒たちの制服も、この日から一斉に変えられる。女子生徒の姿を見て、ああいよいよ夏だ感じるのは、この習慣が根付いているためである。暑苦しくなって、さっぱりした夏の服に替えるのは、明日から今までとは違った日々になることを予感して、心楽しくなる気がする。

百官の衣更へにし奈良の朝 高浜 虚子
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ジャガイモの花

2016年05月30日 | 日記


ジャガイモの花は懐かしい。生まれ故郷にもしばらく行っていないので、この花をみて故郷を思い出す。昔はジャガイモの花が咲くのは、6月の末の頃であったように思う。広い畑に一面にこの花が咲くと見事であったが、戦後の少量不足の時代には、花が咲き終わって芋が成長するこの方が楽しみであった。お盆近くになって、芋の畝を試し堀して新じゃがを採った。薄い皮がついたままをふかして塩をつけて食べるのが好きであった。

同じ食べ物でもカボチャとジャガイモは大きく異なる。米がほとんどないため、どこの農家でも主食はカボチャであった。学校で友達と握り締めた手を開いて見せあった。手のひらは、カボチャばかり食べていたので、みんな黄色くなっていた。今、畑にカボチャを植えて、収穫して食べるととてもおいしく感じるが、かなり年を取るまでカボチャを食べるのは遠慮していた。おいしいのが、カボチャを見ると、子どものころの貧しい食生活を思い出すからだ。

ジャガイモはインドネシアのジャカトラを経て入ってきたのでこう呼ばれる。ジャガタライモと呼ばれるが、北海道では馬鈴薯と言っていた。

病みぬればじゃがたらの花もいとほしく 松藤 夏山
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倉手山から望む飯豊連峰

2016年05月28日 | 登山


今月の週末は登山日和に恵まれている。今日、飯豊の展望台として多くに登山家に愛されている倉手山に登った。2、3ヵ所展望を得られるスポットはあるものの、頂上に立ってはじめて、飯豊の大きさを感動をもって確認できる。倉手山の標高は952m、頂上までの距離も2㎞と短い。ただし、登り始めてから頂上へ着くまで、頂上付近の尾根道を除いてほとんどが急な登りである。本日の参加者6名、内女性1名。最高齢86歳のSさんも参加しした。

飯豊の梅花皮荘から少し先に登山口があり、その前に駐車場がある。駐車場着は8時30分頃であったが、すでに登山を始めている人の車が20台ほど、新潟や福島ナンバーが多い。やはり飯豊山塊の一角にあるだけに、山中の緑は懐が深く素晴らしい。時おり開ける視界からは、飯豊連峰が残雪をたたえて視界に迫ってくる。常に見ることのない自然の大きさに圧倒される。



Sさんの体力を考慮して、ゆっくりと時間をかけて急坂を上る。福島から来た二人連れの女性と抜きつ抜かれつで登った。山で初めて会う人の話を聞くのは楽しい。二人は昨日、梅花皮荘で泊まって、今朝弁当を貰ってこの山にきたという。飯豊の山を登るのを卒業して、周辺から見る楽しみ移行したそうだ。昨夜は一番高い宿泊で9800円、ステーキ付だったという。



山中は気温が上がって蚊やブトも出始めた。虫よけスプレーで防衛する。しかしブナの緑が美しく、ヤマツツジ、コブシの花が咲き残っている。急坂のつかれもふっとんでそまいそうな山の緑だ。ゆっくり登って2時間足らずで頂上につく。頂上からは飯豊連峰の巨大な雄姿が眼前に迫ってくる。すでに10名以上の登山者が、弁当を食べながら、飯豊の景色を楽しんでいた。飯豊の山歩きを専門にした若者が、山の名前や小屋の位置、肉眼でかすかに見える滝のありかを解説してくれた。この若者は、「飯豊の山からの景色も素晴らしいが、外から見る飯豊の景色はそれ以上に素晴らしい」と語っていた

帰路Sさんが疲労で体調を崩し、意識がなくなるという事態が起こった。みんなで荷物を持ったり、安全を確保しながら、励まして一歩づつ下山させて。どうやら、無事自力で下山を果たした。やはり、体力と山の高さは、登る前に慎重に検討することの大切さを痛感した。
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晩年の茂吉

2016年05月27日 | 斉藤茂吉


昭和26年。斎藤茂吉は古稀を迎えていた。大京町に長男茂太の斎藤神経クリニックが新築され、茂吉もここに住んでいた。新宿御苑へ行ったり、杖をついて家の中を歩いたりしたが、病気のため老衰が進行した。やがて家で移動するにしても家人の助けなしには叶わなかった。そんな茂吉のもとに、文化勲章受章の知らせがあった。

新聞社の取材があった。写真を撮るために、妻の輝子が結城の羽織を着せたが、茂吉は気に入らずこれを着せるのも一苦労であった。記者が文化勲章を貰う気持ちを聞いたが、「内定だから」といって質問には答えなかった。授与式には、とみに近くなっていた小水を理由に断るつもりであった。しかし間際になって、自分で行くと言いだした。妻の輝子と長男の茂太が控室まで同行し、その先は入江侍従長に支えられて進んだ。

老衰や痴呆症の進行していくなかでも、茂吉は作歌を止めなかった。弟子の佐藤佐太郎に「これからは意味が通ろうが通るまいがかまわない。でたらめな歌を作るよ」と語ったりしている。

新宿の大京町といふとほりわが足よわり住みつかむとす 茂吉

斎藤茂吉の最後の歌集は「つきかげ」である。大石田に疎開している間に詠んだ歌は「白き山」に収められ、「つきかげに」に比べて秀作も多い。しかし最後の歌集には天衣無縫な味わいのある歌が収められている。

朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥す

茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠のこがらし

辛うじて机のまへにすわれども有りとしも無しこのうつしみは

口述した歌を歌人や弟子に筆記させ、あるときは自分で書いて枕元に置いたりした。妻が見つけた紙には次のような歌が認めてあった。

いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきわまるらしも 茂吉


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郭公

2016年05月26日 | 日記


昨夜蚊が一匹入り込んで、眠っているときに刺されて安眠を妨害された。早朝、畑にいくと郭公が鳴いていた。蚊も、郭公も今年はじめて出合ったような気がする。昔から、「郭公が鳴いたら芹喰うな」と教えられてきた。これは、水辺に育つ芹に、蛭が卵を産み付けるから食べては食中毒を起こすと思っていた。先刻ネットで見ていたら、芹は夏になるとだんだん灰汁が強くなって、苦みを増す、ということが書いてあった。

何れにしろ、蚊が孵化するするのと、郭公が鳴くのは気温に関係があるのかも知れない。郭公は種まき鳥ともいわれ、畑に種を撒くのに適した季節でもある。里山には、ウツギの花盛りである。「ウツギが咲くとワラビの最盛期」ということも教えられた。農作業の合間にワラビを採って、保存したりするのは、やはりこの季節の田舎の人の大切な作業でもあった。鳥や植物と人々の暮らしは密接に結びついていた。

郭公のはじめての声近づき来 相馬 遷子
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