常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

世界谷地

2024年06月21日 | 登山
栗駒山の麓に、新緑と花を訪ねて行ってきた。残雪をわずかに残す栗駒山をめざして、宮城県県栗原市に、大湿原「世界谷地」はある。例年なら、ニッコウキスゲの群落が見られるが、今年はチラホラと咲くのみ。川沿いにブナや広葉樹の林を超えていきつくと、長い木道が敷かれた世界谷地。標高は600mほどだ。なぜ、こんな名がついたのか、不思議だ。東京ドームが三つほどの広さの湿原が二つ。湿原の上には、栗駒山が大きく構えている。この湿原の広さを、世界と表現したらしい。こちからだとカガミ平経由の栗駒山登山コースがある。ワタスゲも終わりに近づき、雑草のなかに群生している。山中には、春ゼミの大合唱、鳥の声も消されている。

花の季節には、ニッコウキスゲのほかトキソウ、キンコウカ、ウメバチソウ、レンゲツツジ、コバイケイソウなどなど、多くの花を楽しむ人が多いらしい。山形から高速を使って2時間半、これらの花を楽しむにはいかにも遠い。近年の温暖化は、花の咲く時期も大きく狂わしている。本来ならニッコウキスゲの見ごろのはずが、19日現在でほぼ咲き終わっていた。この日の参加者10名、80代は自分を含めて3名。ブナ林のなかは木陰に、風が心地いい。遠さを除けば高齢者の緑の散策にはもってこいの場所といえる。
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梅雨入りまだ

2024年06月12日 | 登山
昨日から真夏日、今日も30℃オーバーになるらしい。いつもなら梅雨に入って雨が、植物の成長を促す。今年は、雨がなく空気は乾燥している。それでも植物たちは驚くほど成長が早い。空き地の雑草は、わが世の春だ。畑を作っていたころ、畑の除草に忙殺された。畑を止めたのも、雑草の繁茂力に負けたからだ。年齢とともに、炎天下での地味な作業に耐えられない。せめて、ベランダにハーブを植えて、朝夕、鉢の植物たちとの対話で閑を埋めている。朝、珍しくベランダの手すりにスズメがやってきた。外へ出てみると、植え込みに数羽のスズメが飛び回っている。そういえば、この季節コスズメの巣立ちの時期だ。巣立ったコスズメヲに、餌の採りかたを教える時期なのだ。

以前に住んでいた家の庭でも、庭木にコスズメがやってきた。普段、寝そべっている猫が、野生にかえり、身体を小さくして、コスズメを狙って跳躍した。そうして、猫が獲物を獲って、家のなかに運んできた。コスズメは可哀そうだが、猫のドヤ顔をみて思わず笑ってしまった。ネズミも獲って、死骸を家で転がして遊ぶのが習性であった。それにしても、この季節は、生きとし生けるもの生命力が一番活発な時のような気がする。ベランダに植えたトマトの一番咲きに、小さな実がつき、日一にちと成長している。

子雀の眺められをり芝の上 水原秋桜子
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縄文村

2024年06月07日 | 登山
長井の古代の丘と三階の滝を散策した。山友会が高齢者の脚力に配慮して、少し歩いて三階の滝の涼しさに浴し、人類の歴史を振り返るというやさしい企画であった。古代の丘には、古代の村が再現されて、土偶のレプリカが展示され縄文村と名付けられている。資料館には発掘された土器が展示され、竪穴式住居も復元されて内部の様子が知れる。ピオニーの森には、シャクヤク公園、ハーブの庭、ジャンボハウスという25人が泊まれる宿泊施設もある。この丘を散策しながら、縄文の時代に遊ぶのも一興である。

そもそも縄文時代とは、紀元前1万年から紀元前300年まで、ほぼ1万年の長きにわたる。弥生時代を多く見積もって1300年。その10倍の長さをになる。時代区分は草創期紀元前7000年まで。早期はそれから5000年まで。前期が同じく紀元前3000年まで。中期はそれから2000年までの1000年。後期は同じく紀元前2000年から1000年まで1000年。そして晩期がそれから紀元前300年の700年をさしている。総人口はものの本では、前期5万人、中期27万人、後期8万人と推定されている。狩猟、採集生活で食料が賄われ、ドングリの採集や鮭の捕獲・保存には一時的に多くの人手が必要になる期間があった。ここで、人を集めるのに行われたのは、祭りや祈りなどであった。この時代の人たち25年の寿命で、危険とともにあって死は非常の身近ななものであった。富の蓄積や権力者がいるわけではなく、搾取のない無階級社会であった。

土器が祭りの祭器として使用されたことも知っておきたい。中期に見られる火炎土器は、上部に火炎のような装飾が施されている。日常の煮炊きにには、非常に扱いづらい。ドングリや鮭の採集時期に集まった人々が、集まって踊り、祈る際の煮炊きには、その装飾のゆえに人々の血気を盛んにしたことは想像できる。土偶を見ても、この時代の人々が身を飾り、その日を生き延びるために努力を続けていた。縄文人の命を奪ったのは、実は大災害であった。火山の噴火、大地震、大津波、大暴風、疫病の蔓延。今日の人類を襲っている災害と大きく異なるものではない。疫病への対処が、人の寿命を延ばす大きな要因であったかも知れない。
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新緑と始まる6月

2024年06月02日 | 登山
昨日、尾花沢の二つ森に新緑を訪ねた。いよいよ6月が始まる。その日、目に優しいブナの新緑。南宋の詩人に「柳暗花明」という句がある。

「山重水複 路無きかと疑い 柳暗花明 又た一村」。重なりあった山、折れ曲がった川に沿ってもう道はゆきどまりかと案じていると、柳が暗く枝を垂れた彼方に、ぱっと花々が群がり咲いて、また一つの村が見えてきた。」昨日の山行は、この詩を地に行くような歩きであった。柳に対して、二ツ森には、日をさえぎるブナの新緑があり、目を下に落とすと、咲き残りのツツジが、草むらに明るい。

二ツ森は北峰(742m)と南峰(695m)の双耳峰である。以前は、南峰、女山にしか登山道がなかったが、2020年岩峰の男山にもロープや階段の山道が作られ二つ登山が可能になった。登山道は牧場の縁にある車道で、登山口駐車場から。二つの山の鞍部まで、渓流や細い山道が続く。この山は何度も登っているが、ほぼ冬から春、雪のなかを牧場を横切って登った。夏道はその分短く、鞍部まで40分、鞍部から男山は40分、下山20分。鞍部から女山には10分ほど、久しぶりの山道、急登で足の筋肉が悲鳴を上げている。ポールを使って狭い歩幅で、疲れない登山。下りは、ロープをつかって後ろ向きになって下山。心配された急坂も、無事に往復できた。

やはり、初夏の緑はいい。その中に入ると、木々の息吹がそのまま体内に入って、元気がもらえる。この平和そのもののたたずまいも、森の変遷に向けて、植物同士の闘いの平衡状態と、植物学者が語っている。ブナが優位を占めるにはも理由がある。それは、積雪に対しての耐性だ。この雪の試練を通り抜けたものが、この森を支配する。太平洋岸と日本海側では、その植物相は大きな異なりを見せる。
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卯の花

2024年05月25日 | 登山
唱歌「夏は来ぬ」には、卯の花が詠みこまれている。卯の花とホトトギスは対のものになっている。歌詞を記すと

うの花のにおう垣根に
時鳥葉やもきなきて
忍び音洩らす 夏は来ぬ

時鳥も卯の花も、『枕草子』以来、日本の夏のシンボルとして語り継がれてきた。これほど、有名なものであるのに、長い人生のなかで、この花が卯の花、この鳥がホトトギスと特定することはいまだにできていない。折にふれて卯の花と思しき花を見ていたろう。山で甲高く鳴く、ホトトギスと思われる鳴き声を聞いても、その鳥の姿を間近で見た経験がない。

枕草子99段。五月の梅雨模様の天気、宮中の女御たちは退屈を覚え、「ほととぎすの声尋ねばや」と言い合って、牛車に4人ばかり乗り合わせて、さる朝臣の邸を見に下り立つ。馬の絵のある障子、網代屏風、みくさの簾。どれも昔の形をうついた奥ゆかしい見ものである。すると、待ちかねていたほととぎすが、けたたましく鳴き会う。ここで、田の稲や、引き臼を回しながら踊る乙女など宮中の女御たちには珍しい見ものばかりだ。さらに萌え出たワラビを手づから取り、門口に咲き乱れた卯の花を折り取って牛車の屋根に挿し、卯の花車に仕立てて意気揚々として、宮に帰っていく。あまりの珍しさに、いつもはまず一首と、詠んだ和歌を書き留めたものだが、定子に「歌は?」問われるまで失念しているありさまであった。

ベランダのラベンダーの花穂を4、5本切り採って束ね、小さなラベンダーの束を玄関脇の壁に吊るした。卯の花を採って飾ることはできないが、せめてものラベンダーで、自然のかおりを室内にとり入れる。少しずつこの束を増やしていくと、乾燥してポプリになる。育てたハーブを日々の暮らしのアクセントにする。これも、体力が衰えつつある、高齢者のできるぎりぎりの自然の楽しみ方だ。
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