1960年6月15日は戦後日本にとって特別な日であった。日米安保条約の改定に反対する運動は、大きな盛り上がりを見せ、国会へ請願するデモ行進は、増加の一途を辿った。5月19日に岸内閣は、国会の審議を突然打ち切り、条約関連の法案を自民党単独で強行可決した。そして、6月15日、抗議のデモは10万を超え、夕刻まで、南通用門で警官隊とデモ隊の衝突が続いた。
薄暮の7時ころ、警備の警官隊が学生たちに押される形で、奥へ引き、デモ隊が国会のなかに入った。そこを目がけて警官隊が排撃の攻勢に出た。激しくもみ合うなか、中へ入ろうとする後続と、警官隊に押し返される先陣が、ぶつかり大きな転倒が起きる。下になった学生の上に倒れ込む学生が何人も積み重なった。こうした混乱の中で、一人の女子学生が命を失った。東京大学の女子学生、樺美智子さん22歳。
樺さんの遺稿というべき一つの詩がある。まだ高校生であった頃に書かれたものだ。
最後に 樺 美智子
誰かが私を笑っている
こっちでも向うでも
私をあざ笑っている
でもかまわいなさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れず ほほえみたいものだ
この日を境として、デモの高揚は潮が引くように引いていった。岸内閣が退陣し、7月19日、所得倍増を掲げる池田内閣が登場する。日本の長く熱い政治の時代が終焉し、経済の時代へと大きく舵が切られた。やがて高度成長へと向かっていく。いまの時代を、樺さんは、草葉の陰からどのように見ているであろうか。
平和を求め この齢(よわい)にして