常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

鉢伏山

2014年08月31日 | 登山


昨日、山行に選んだ山は米沢と喜多方の境界にある飯森山である。山麓には洪水への備え、飲料水の確保、潅漑用水としての利用を目的とした日中ダムがある。このダム湖畔に飯森山への登山道の入り口がある。このコースは尾根道を行くが、沢コースもありいずれもベテラン登山者に人気のある難コースである。この山の頂上からは飯豊連峰の眺望がすばらしいと案内書に記載されている。歩行距離16キロ、登山道は最初から急登で、この山に入った人の証言ではかなりハードな山行でああるとのことである。

何故、このようなハードな山行が計画されたのか。わが山の会でもメンバーの高齢化が進み、元気な人たちのための企画としてこの山が選ばれた。sさんは以前からこの山の存在を知りぜひ行ってみたいと今回の山行を楽しみにしていた。我が会では2度目の企画である。果たして登れるか、今の自分の力を試してみたいという動機が、今回の計画に参加した理由である。参加者5名、内女性1名。天気予報では曇り、午後から降雨の可能性。激しい雨の降る可能性が少ないようなので、この山行は実施された。準備を完了して登山道入り口から登り始めたのは午前6時。なるほど、最初から急な登りだ。



約1時間で見晴らし台に着く。木や雑草が伸びて見晴らしはあまりよくない。尾根道から登ってきた後を振り返ると、霧のなかに折り重なるような山並みが見える。飯豊に続く山の懐はさすがに深い。山道で行き会う登山者は皆無、静寂そのものの登山である。どこにでも見られる花もなく、ブナの林が続いている。驚いたことは、この季節にもうナメコが出ていたことだ。ムラサキシメジ、アミタケなど秋のキノコが山道の脇にでている。



急な勾配に苦しみながらも、4時間半で鉢伏山の頂上に着く。トンボが驚くほど多い。先行したsさんはすでに飯森山へ向かったのか、見晴らし台に行く前から姿が見えない。残りの4名は飯森山へ行くことをこの時点で断念、sさんが戻るのを待ちながら弁当をとることにする。



sさんが向かった飯森山が少しガスをかぶりながら、頂上の姿を見せている。この時点で今日の山行はここまでにすることを決断する。すでに足の疲労を感じ、目的にチャレンジしても下山時間が遅くなるという判断である。いつもは足の疲労はそれほど感じないが、履いてきた革靴が重い。そんな」話をしているうち、sさんが飯森山の頂上から戻ってくる。sさんのペースは、鉢伏山まで3時間、そこから飯森山まで1時間半ということであった。驚くほどのハイペースである。もう元気な人と同行するのは無理だな、という気持ちがこみ上げてくる。ここからの下山は、自分のペースが極端におそくなっているのに気づく。これから楽しい山行を続けていくためには、無理な計画は避けるべきというのが率直な感想だ。

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虫の声

2014年08月28日 | 日記


蝉の鳴き声が消えて、とって代わるように草むらに虫の声が聞こえている。もう生らなくなったキュウリの木を倒して、草むらに捨てたときコウロギが動くのを見かけた。今年の夏は劇的に終わり、秋雨が続き部屋に吹き込んでくる風はすでに冷たい。

切々たり暗窓の下

喓々たり深草の中

秋の天の思婦の心

雨の夜の愁人の耳

「喓々たり」とは虫がすだく声を現している。『白氏文集』に収められた絶句である。虫の声を聞きながら、戦場に赴いた夫を案じる妻の心である。日本の王朝では、訪れる夫を待ちわびる婦人に聞こえる虫の声は、婦人の泣き声に重ねられた。

いま、そんな古代のことははるかな歴史に埋もれてしまったが、虫の声を聞くとなぜか秋の寂しさを呼び起こされるような気がする。


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2014年08月27日 | 日記


昨日の夕方、山形市の東の空にみごとな虹が立った。虹は夕立が止む頃に現れることが多いが、見逃すことも多く感動的な虹に会うには様々な条件が揃わなければならない。それ故に美しい虹を見ることは年に数回といったところだ。俗に朝虹が立てば雨、夕虹が立てば晴れと言われるが、この後もぐづついた雨模様は終わりそうにない。

虹透きて見ゆわが生の涯までも 野見山朱鳥

中学生の頃見た虹は、石狩川を越えて初恋の友の住む町へと伸びていた。虹の架け橋というものを現実のことに思える、幼い日のあまりにあえかな懐かしい思い出である。いま、日が沈むと消え去っていく虹であるが、幼い日の記憶を呼び戻してくれる貴重なものだ。


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月山

2014年08月26日 | 登山


一向に安定しない気候であるが、わずかな晴れ間を盗むようにして月山に登った。今年初めて山の会の仲間になった3人と、安心して行ける月山の初心者コースを歩いた。降雨を覚悟して行ったのだが、雨に降られることもなく、のんびりとした山行になった。平日であったが山には多くの登山者が入っていた。しゃれたスタイルの若い登山者に多く逢えたのはうれしい誤算であった。



登山道は整備されて歩きやすい。木道を過ぎても石畳が続き、その後は石を歩きやすい大きさに並べてある。登山者をもてなしてくれるうれしい心遣いだ。木道の脇にはニッコウキスゲ、ヨツバシオガマなどが咲き、チングルマ、アキノキリンソウなどの花を楽しむこともできた。時おり霧が晴れて山容の大きさを垣間見せてくれる。風もなく、ピリカンの太陽まない登山向きの天気である。ひとつ惜しいことは、眺望がとれなくシャッターチャンスに恵まれなかったことだ。

夏の日の海に落つるまで月山のお花畑にわれあそびおり 結城哀草果



雪渓のあたりから霧が立ち込めている。初めてここに登る三人は、一様に山の風景の雄大さに感服している。目の前に広大な高原が続き、名も知らぬ山々がうち並ぶ風景は確かに日常の中では見られぬものだ。月山は一名を臥牛と呼ばれる。牛を臥せたような姿である。頂上への岐路には、牛首と呼ばれる起伏がある。鳥海山の山容に比べると、屹立したところがなくどろっと牛が横たわっているような姿なのだ。山形にある我が家から遠望すれば円な月のような山に見える。月山とはなるほどうまく名づけたものである。



頂上付近に来て芭蕉の句碑が立ててある。「雲の峯いくつ崩れて月の山 桃青」と刻まれている。1689年6月、松尾芭蕉はこの山に登り、「おくの細道」に書き込んでいる。
「8日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上にいたれば、日没して月顕る。笠を舗、篠を枕として、臥して明るを
待つ。日出て雲消ゆれば、湯殿に下る。」三百数十年前、芭蕉がこの場所に足を踏み入れていたことを思うと不思議な気がする。

涼しさやほのみか月の羽黒山 芭蕉



頂上の小屋の脇にハクサンフウロが咲いていた。標高1984m、すでに樹林限界を超えて矮生の高山植物ばかりだが、花の色彩の濃さに驚く。一輪アップにしてカメラに収める。ここに来るまでの草地には、ニッコウキスゲ、ミヤマシオガマ、ヒナウスユキソウ、トウヤクリンドウなどこのやまならではの花々に出会った。



月山神社にてお祓いしてもらう。祓い料500円。ほかに女性2名は、灯明をたて家内安全の祈願を受ける。山周辺はもとより、全国からこの神社を参拝に訪れる人は多い。成人の祈願で15歳になると男子は親に連れられてこの山に登るのが恒例であった。日本のこうした信仰は時を経てなお衰えることはないように思える。


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新島襄の渡米

2014年08月25日 | 


新島襄(1843~1890)の幼名は七五三太(シメタ)という。彼の祖父は孫が四人続けて女の子であったので、男の孫を心待ちにしていた。五人目の孫が生まれたとき男の子であったので、祖父は嬉しさに思わず「しめた!」と叫んだのでこんな珍しい名になったという。父母の七五三太に対する期待は大きく、侍の長男として厳しい教育が授けられた。漢学と武道、がその教育の中心であった。だが時代は幕末で、欧米の圧力もあり鎖国から開国へと舵が切られようとしていた。

七五三太は14歳のときにはオランダ語を習い始め、物理学や天文学のテキストを読めるようなる。七五三太の関心は西洋の科学、とくに航海術を学習してオランダの軍艦に代表される西洋の脅威から日本を救うことであった。万延元年(1860)にはオランダ軍艦に載って日本の使節団がアメリカへ渡ったが、これが七五三太のみた初めての軍艦であった。この年七五三太は18歳、アメリカ渡航の夢は大きく膨らんだ。

七五三太が最初に乗った船は、松山藩の帆船快風丸であった。この船はアメリカで建造されたもので、七五三太は備中の玉島から江戸を往復する船に乗る許可を藩主からもらった。元治元年(1864)には七五三太はこの快風丸で、江戸から箱館まで帆走している。この間、船の同乗者から、『ロビンソン・クルーソー』の日本語訳を借り、渡航の夢はますます膨らんで行った。だが、この時期は特別の許可がない限り、海外へ出国はかたく禁じられていた。

だが偶然が重なって、箱館から向かった上海で七五三太は喜望峰からボストンに至るアメリカ商船の船長の船室係として雇ってもらうことができた。実は雇っていた中国人を首にしたので、代わりの者を探していたのである。親には渡航することは伝えなかったが、七五三太の行動でこうなることを予想していた。密航者新島が船賃を払う代わりに、船長の部屋の清掃や整理整頓をすることになった。船長は新島という名が発音しずらかったので、「これから君をジョーと呼ぶ」と言い渡した。新島襄という名はこうして名づけられた。

アメリカで養父母を得るまで、新島襄が舐めた辛酸は筆舌に尽くしがたい。新島襄は日記に「日々難渋なる働きをなしつらさのあまりに」と詞書をつけ和歌を書きつけている。「寒梅」など名詩で知られる新島襄であるが、その船中の仕事の過酷さに、詩心はどこかに置き忘れたような和歌である。

かく迄と兼て覚悟はせしなれどかくかくと如此と思ハじ

新島襄が船中肌身離さず持ち、読み継いだのは『ロビンソン・クルーソー』であった。父母を思うかたわら、挫けそうになる初心を振るい起こしたのは、この物語であった。キリスト教に改宗し、教育者としての学問を身につけて帰国し、同志社大学を設立した新島襄の渡米は、全く薄氷を踏むようなものであった。その行動が、ひとつ別の方に転がれば、異国の土になってしまったであろうことは容易に想像できる。

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