常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

八月行く

2021年08月31日 | 日記
はや八月が終わる。恥川の土手の桜の葉が黄色になっていた。今年は季節が早く巡っているのだろうか。秋が来るのも早いような気がする。蝉の声もいつの間にか聞こえなくなっている。草むらからは虫の音が聞こえ始めた。天気予報も東北を境に北で秋の気配、南では残暑。その中間に秋雨前線。しばらく秋雨が降るぐずついた気候になるらしい。清少納言の『枕草子』に

秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどととびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず。

と夕暮れの様子を書いたが、千年を経て、季節の移ろいは変わらないことがいまさらのように感じられる。ただ、街には光の洪水があふれ、本当の夜は深い山奥にいかなければ感じられない。日が落ちて、深い夜の闇に包まれる前の夕暮れ、薄明りはやはり清少納言の頃とは異なっている。堀口大学の詩「夕ぐれの時はよい時」も、そんな日本の古い歴史の時代に思いを寄せて読むべき詩である。

夕ぐれの時はよい時。
かぎりななくやさしいひと時。

それは季節にかかはらぬ、
冬ならば暖炉のかたはら、
夏ならば大樹の木かげ、
それはいつも神秘に満ち、
それはいつも人の心を誘う

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風蝶草

2021年08月30日 | 
この花を見たのは去年の夏だ。そのときはじめて見たので、ネットで検索した記憶がある。だが、その名を思い出そうとしても、しっかりと忘れている。あらためて見てみると、西洋フウチョウソウとある。漢字で書けば風蝶草。蝶が風に舞うよう花の姿からこんな名をつけたらしい。もとの名はクレオメ。熱帯アメリカの原産とある。冬は越せないので、種を春に蒔く。庭にこの花を育てている方は、この花がお気に入りなのであろう。珍しい花である。夏の終りを告げる花でもある。

晩夏なり古びし風の吹きをれり 相生垣瓜人

晩夏という言葉のひびきに懐かしい感慨がわく。残暑が厳しいのに、朝夕の風がつめたいと、そこはかとなく秋を感じ、心なし寂しい気がする。耐えがたいほどの暑さが、少しづつなくなっていく淋しさがあるのだ。これは人類が地球上に生れてから、生き延びるために寒さと闘ってきた長い歴史の記憶が身体のなかに埋めこまれているからであろう。人々は長い冬に備えて食糧を備蓄し、山の枯れ枝を集めた。

 幻の花 石垣りん

庭に
今年の菊が咲いた

子供のとき、
季節は目の前に
ひとつしか展開しなかった

今は見える
去年の菊
おととしの菊
十年前の菊。

遠くから
まぼろしの花たちがあらわれ
今年の花を
連れ去ろうとしているのが見える。
ああこの菊も

そうして別れる
私もまた何かの手にひかれて (詩集『表札など』)
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菊花の約

2021年08月29日 | 日記
残暑は厳しいが、朝夕はめっきり涼しい。開け放しにしているベランダからは冷たく、寒いほどの風が入ってくる。もう重陽の節句もすぐそこに迫っている。ラフかディオ・ハーンの『怪談』に「菊花の約」という話がある。播磨の国に義兄弟がいた。出雲の武士、赤穴宗右衛門と播磨の丈部左門である。春のある日、赤穴は故郷の出雲へ帰ることを思い立った。赤穴は「秋には帰るから」というと、丈部は「兄上、出雲はここから百里もある遠い国。帰りの日時を決めることは難しいかも知れません。しかし、その日時を約してくれるなら、帰国の宴を準備して、門に立って待ちましょう」赤穴「よいぞ、わしは旅馴れたた身、9月9日の重陽の日に帰るとしよう」

光陰矢の如し、門前で兄と涙の別れをしてから、夏が過ぎ、義兄が帰る9月9日がやってきた。丈部は朝から、このみの食べ物、よい酒を買い、客間を飾り、床の間には壺に黄と白の菊をいっぱいに挿した。その日、空は晴れ、おだやかに大気も住んで、遠くまで見通すことができた。昼前に、2,3の武士が村を通り過ぎた。赤穴に違いない、武士の姿を見たが、近づいて見ると別人であった。昼が過ぎ、夜空に星がきらめいても赤穴は帰ってこない。一緒に待っていた母が、「今夜はもう戻るまい。家で臥し、明朝又出向かえれば」と忠告しても「母上はどうぞお入りなさい。私はもう少し」となお門口に立った。

月が登り、さすがの丈部も諦めかけたころ、向うから背の高い武士が現れた。待ちに待った赤穴の姿がそこにあった。「お疲れでございましょう。食事の支度もできたおります。さあ、入って」と言うと「母は?」と聞くので「待ちくたびれて床につきました。すぐに」と言うと、「まあ待て、その前に帰りが遅くなった訳を話す。母が目覚めないような小声で赤穴は話し始めた。

「出雲では、尼子経久が城主を追い出して城を乗っ取り、権勢を振るっていた。従兄の赤穴丹治も尼子に靡き、仕える身になっていた。「そちも尼子の殿様に知己を得ていた方がいいぞ」と城主に紹介された。尼子の残忍な性格を聞き及んでいた赤穴は、従兄の前で仕えるつもりのないことを明言した。すると、その場で囚われの身となり、部屋に押し込められてしまった。9月9日には帰る約束をしているから放してくれ、いくら頼んでも聞き入れられないずついに今日に至った」「えっ、百里の道、一日ではとても帰れません」「ほれ、魂よく一日に千里を走る、というではないか。幸い、刀だけは身を離さずに持っていた。」というと、ご馳走に箸をつけずに姿を消してしまった。丈部の前に姿を見せたのは、自刃した赤穴の魂。丈部は、出雲で兄が自刃して果てたことを知ったのである。日を置かず出雲に出た丈部は、赤穴丹治の家を訪ねると、丹治の家来の面前で兄への不信を面詰して、一刀のもとに切り捨てると、手傷を負うこともなく播磨へ帰った。

ハーンの怪談には、人の霊魂の話がたくさんでてくる。たかだか、百年と少し前の日本には、こんな話が、子どもたちに語られ、あの世の不思議が話されていた。ハーンはそれらの話を集め、英語で本にして出版した。漱石が、西洋の文学を留学して勉強し、学生に講義していた時代である。
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ちいさい秋

2021年08月27日 | 日記
ちいさい秋みつけた 
大朝日岳の縦走のブログを書いている内に季節は処暑。朝の散歩道の草むらからしきりにコウロギの鳴き声をきくようになった。木には実が大きくなりはじめ、八百屋さんにはブドウや梨の実が並んでいる。こんな時期になって、思い出されるのは童謡の「ちいさい秋みつけた」。特にダークダックスの一節が、つい口に出てくる。誰かに聞いたことがある。どんなに高齢になっても、人間の中には子どもの部分が生き残っているらしい。さしづめ、童謡が頭に浮かぶというのは、その証しであるような気がする。肉体のなかで、高齢になっても生き続けるのが筋肉であるから、心のなかの筋肉が、この子ども現象である。大人になってから小さな子を愛おしむのも、自分のなかにある子どもの部分が共感しているからのような気がする。それにしても、コロナの感染がデルタに変異してから、子どもたちへ広がり始めた。もうじき新学期が始が学校での感染が心配だ。こんな時期に、都内の小中生を、パラリンピックの観戦を推奨している為政者たち。あまりにも、子どものリスクに鈍感すぎないか。昨年は、子どもたちの間では感染が見られないのに全国一斉に休校とし、感染リスクがどんどん増えていくなかで、パラリンピック観戦。こんなちぐはぐさが、政府のコロナ対策に不信を招いている。

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大朝日縦走(5)

2021年08月26日 | 登山
21日の早朝、最後の小屋泊りが明け、朝の日が小屋にあたっていた。主稜線の縦走が終り、この日は小屋から古寺鉱泉へと下山する日である。聞き古した言葉ではあるが、登山での事故は80%が下山時に起きている。小屋からは名水の銀玉水で水を補給し、小朝日は熊越で巻道を通って古寺山、花抜峠への分岐で一服清水で喉を潤したあと沢ヘ下りて、古寺鉱泉に至る。コースタイムで4時間、我々の足であれば休みを入れて6時間の道のりだ。三日間の稜線歩きで疲れた足には、決して易しい道ではない。だが、縦走でなく大朝日岳へ登るにはこのコースか、小朝日から鳥原山をへて古寺に至る道も多くの人に登られてきた。この道を歩いてしっかりコースの道順を記憶しておくにはいい機会である。谷を雲海が埋めて、景観にほどよいアクセントがついた。春から下り道の歩き方を練習してこの日に備えてきた。その甲斐あってか、足の筋肉には下りに耐えるゆとりがついている。転倒の心配もなく、順調に高度を下げる。

古寺山で振り返ると、巻いてきた小朝日の登山道が見えた。古寺山から花抜き峠まで、地図ではすぐに着くように見えるが、下りは延々と続く。Nさんが、ハナヌキまでくれば後は楽な下りだよ、と言うがそのハナヌキ分岐が遠い。コースタイムは40分とあるが、多分小1時間であろう。やっとの思いで分岐を越えて、沢音が聞こえてきた。深い山を降りてきて、沢音を聞くのは終点が近づいている目安でもある。12時を過ぎて朝日鉱泉に着いた。沢筋の道を行くとかって営業していた温泉宿が、当時の姿は残しては朽ちかけながら、鉱泉の俤を伝えている。4日間、JPSの歩行距離をみると累計で29.9㌔と示されている。よくぞ、この道のりを歩き通した、わが足をほめてやりたい。

お花畑どこまで続く縦走路 瀧澤ちよこ
コメント (2)
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