春になって、スマホを片手に朝の散歩をすると、毎日春の花が咲きだしているのに出会う。こんな毎日を送るようになって花の名を知ることは、基本知識として必須である。ブログを読んでいて、知らない花の名を、ことも無げに書いている人の記事を読むと、ただ敬服するばかりだ。花の図鑑を買ってみた。そのページを開くと、外来の花の名ばかりが目に付く。植物だけのことではないが、この国では外来の種が、日本古来の在来種を片隅に追いやり、わが世の春を謳歌している。セイタカアワダチソウだけでなく、花壇でも外来種が、大きく勢力を伸ばしている様子が、図鑑からも読み取れる。
山の仲間にも、高山の花に興味を持ち、図鑑の持参して、いつも花の名を確認している人がいる。3年も経たないうちに、ほとんどの花を覚え、花の名をいち早く告げる先生になった。山の環境を選んで繁殖する高山植物を観察することは、山の自然の特徴を認識していくしるべにもなる。高山の花の前線は、高度によって上がっていく。里近くで見る春の訪れも、すこし高度を上げれば、枯れ枝の山から、積雪のある冬と、季節が混在する。
スマホのカメラに便利な機能がついている。撮った花の写真の名を知りたいとき、ワンタッチで花の名を書いたアプリが起動できる。この機能で、黄色いバラのような花が、黄梅であることを知った。「みんなの花の図鑑」などのサイトへ投稿しなくても、即花の名を知ることができる。ただしこの機能には弱点もある。雨の上がったばかりで香る沈丁花を、このアプリで見ると、「桐の花」と出てくる。紫の、しかもあの背の高い桐と沈丁花を何故間違うのか、ちょっと残念な気がする。
昨夜からの雪と雨で、咲いた花たちに露でしとどに濡れている。花をこよなく愛でた清少納言の『枕草子』の記述が思い起こされる。その観察眼は濃やかで、筆致も冴えわたる。
「いと色ふかう、枝たおやかに咲きたるが、朝露にぬれてなよなよとひろごりふしたる、さ牡鹿のわきて立ち馴らすらん、心ことなり。(中略)すこし日たけぬれば、萩などいとおもげなるに、露の落つるに枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへあがりたるも、いみじうおかし。」
雨上がりや朝露にぬれて、花の重たげなようすを観察し、その花の一瞬の動きからも目を離さずに見まもる古代の人の眼は、今の時代もこの国の人々に、残されているように思われる。