晴耕雨読

耕すのは土だけではない。
心のなかこそ酸素を補給し、ゆたかな栄養で満たさなければならない。

森谷先生

2019年02月22日 | 日記

ラインの書き込みで、森谷長能先生の訃報を知る。高校の卒業の年、クラスを担任していた英語の先生である。高校を卒業してもう60年の過ぎようとしているのに、これほど長く交流した先生はいない。生まれた年は、1929年と聞いているから、享年90歳である。それにしても、つねに若々しい感じの先生であった。このクラスは、例年同級会を開く。そこに必ず出席されるから、これほど長く先生の謦咳に接することができた所以である。

 

「今、我が家のルーツを探しているんだよ。」と言われたのは、20年以上も前である。「先祖はどうやら、山形だったらしい。今度、山形に行くよ。」という話をされた。ある年の同級会に、先生は一冊の絵本を持参された。ポプラ社の『おまつり村』である。絵本では山の村に住む人々の、悲しい歴史が語られている。年に一度のお祭りでは、村人はヒョットコ面を被って踊った。山は人々くらしを支える場だった。サムライの世が終わったが、山は役人たちから取り上げられて、木を伐っても罪人となった。

 

村人が決意をかためて渡ったのが、蝦夷の地である。原生林が果てしなく広がり、びょうびょうと風が鳴っていた。長次郎は、よしここに俺だの村、つくるべ。と言いながら、父からもらったヒョットコ面をつけて、踊り始めた。開拓の厳しい、長い歴史が始まる。長次郎に子ができ、一家でお祭りができるころ、長次郎は死んだ。長次郎の供養は、ヒョットコやオカグラの面をつけて踊ることであった。「おまつり村」がこうしてできた。

 

絵本の奥書を見ると、長次郎の先祖が天童市市史編纂室の戸籍が残されている。「平民 農 森谷長兵エ 天保12年11月16日生」。この森谷姓こそ、先生が探していた、先祖のルーツであったらしい。一昨年、定山渓で最後のお会いしたとき、先生は、幾度も口にされた。「今井君、ねえ、僕の先祖は天童だったんよ。君の住んでいる所近いんだろ。」

コメント

雪消

2019年02月21日 | 日記

雨水を過ぎて、毎日見る西の山が急に身近になった。凍てつく日には、どこか近寄りがたい、神々しいまでの白さを見せていたが、昨日、今日と、青味をおびて懐かしい里山の風情になった。今年は、そもそも積雪が少ない。月山の雪も少なく、例年の半分ほどという。昨日、日帰り温泉の顔なじみが、畑に出て草とりをした、と言っていた。根が動かないこの季節は、除草も楽にできるらしい。そろそろ、畑のことも気になるころだ。

風に聴く雪消山河の慟哭を 相馬 遷子


数日前に、妻がうらの空き地から、数個のフキノトウを採ってきた。味噌で炒めたバッケミソは春の香りであった。水仙などの草花の芽はまだか。いつも咲いている場所に出かけて観察する。雑草が、日を受けて、成長へ姿勢を改めているが、花の木や草は、一向に芽生えてくる様子はない。俳人の幻のなかにしか花はない。

幻の辛夷かがやく枯木中 角川 源義


スマホの時代になって、買い物の姿が変わっている。以前なら、新聞に折り込まれたチラシに買い得品が載っていたが、今はメルマガで、今日のお買い得品が送られてくる。週に4回ほどだが、本当に日常の買い回り品が、30%から50%の値段になっている。通信費が、これだけ安価で、だれもが使える時代ならでは利用法である。

コメント

雨水

2019年02月20日 | 日記

24節季の雨水が来て、雨になった。雪から雨へ、暦の上で雨の季節となったが、昨今は不思議と現実が暦に一致あする。「春は名のみの」と言う歌があるように、暦は実際より先んじているものと、思い込んでいた。立春に春一番が吹いたり、雨水に雨が降れば、ちょっと気候が変、と思うのは私ばかりだろうか。雨水の初候は「獺祭魚(獺、魚を祭る)」である。この季節になると、獺が魚を獲るようになる。すぐに食べないで川原にならべて置く習性がある、らしい。日本では、獺が絶滅してしまったので、この光景を見ることできないが、岩国の酒造会社の銘柄にその名残をとどめている。

 

「春水、四沢に満つ」とは、陶淵明の詩だが、この季節には沢の水が、溢れんばかりに流れる。やがて雁の北帰行が見られ、土の上では啓蟄、虫が動き出す。いわゆる、春近し、の季節の到来である。

 春を待つ 伊藤 整

ふんはりと雪の積もった山かげから

冬空がきれいに晴れ渡ってゐる。


うっすら寒く

日が暖い。

日向ぼっこするまつ毛の先に

ぽっと春の日の夢が咲く。


しみじみと日の暖かさは身にしむけれど

ま白い雪の山越えて

春の来るのはまだ遠い。

 

コメント

本屋

2019年02月19日 | 日記

昨日、山形の西方に、雪の葉山がそのどっしりとした存在感を見せた。その左には白い月山があるのだが、シーズンで数回だが、その月山よりも存在感を見せることがある。春先の空気が澄み切って、山が近く見える上に、尾根の襞の一つが、雪と光で深く切り込んで見えるときだ、月山はこの時期、雪が深く丸みを帯びた純白のやさしい姿を見せているに過ぎない。

 

春になると、街の本屋さんは、高校の教科書取り扱い所となる。娘たちが、高校に入ったとき、車で教科書を引き取りに行った。その一つに遠藤書店があった。学生時代には、八文字屋で主に本を買ったが、そのついでと言ってはおかしいが、筋向いの遠藤書店を覗くのが常だった。昭和30年代であったので、和服を着た店員が居て、火鉢を置いたところで主人が座って、茶を飲みながら客と何やら話し込んでいる風景も珍しくはなかった。                                   

 

制山形高校で学び、その後東大に進み、作家となった駒田信二に遠藤書店の思いでを語る一文がある。文学青年であった駒田は、ロシアとフランス文学をがむしゃらに読んだという。行きつけの書店は言うまでもなく遠藤書店。授業をさぼって本を漁っているうちに、当の島村先生が書店にやってきた。バツが悪くて本の陰に身を隠したつもりだったが、目ざとく見つけた教授は、「駒田君、隠れなくいい。こっちでお茶をごちそうになりなさい。」店の主人も、駒田がよく本を買っていくので、「この学生さんは、岩波文庫の翻訳本をよく読まれていますよ」と教授に告げた。教授は少し考えて、「ふーん、君原文では読まないの?」岩波の英和辞典の著者である先生からして見れば、当然の発言であった。

 

当時、書店は知識人のサロンの風を呈していた。よく来る客には、歌人の結城哀草果、和服しか着ない名物教授岡本信二郎先生、そして市内の中学の先生たち。遠藤書店はすでにない。アズ七日町のビルのオーナーでもあり、2階に書店を出していたが、郊外の大型書店の出現で、その姿を消した。

 

コメント (2)

英彦山

2019年02月18日 | 日記

少しずつ陽ざしが春めいてきた。風邪もようやく熱が下がり、日常を取り戻しつつある。スマホ用GPSが作っている動画でに「山旅日記」というのがあるが、その一篇の英彦山を見た。山ガールが腕に着けたスマホで、ヤマップの軌跡を見ながら登る姿を撮影したのもので、2月の放映は大分県の英彦山になっている。標高1199mの比較的低山だが、登山口の中頃に、そして頂上に英彦山権現の神宮がある。かつての修験の山で、山形の羽黒山、熊野の大峰山と並んで日本三大修験の霊場として九州一円の信仰を集めている。

大正時代から昭和の初期に活躍した女流俳人に杉田久女がいる。父は鹿児島県庁の官吏で、久女が幼少の頃に沖縄に移住し、その後も父の転勤で台北へ移住している。久女には姉もいたが、ここから二人とも東京のお茶の水高女へ入学、当時、台北からこの女学校へ入学するの珍しく、新聞で紹介され日本中の話題になった。高女を卒業後、画家で小倉の中学教師であった杉田宇内と結婚する。大正6年ごろ、俳書「ホトトギス」の台所雑詠に投稿、入選して5句が誌面に掲載された。

ホトトギスを主宰する高浜虚子から認められ、師事することになった。子供たちも成長していくつれ、俳句を学ぶ傍ら、山を登ることもするようになった。登る山は折につれて家の近くにある英彦山である。今回の「山旅日記」山ガールの先駆けということになるのかも知れない。昭和5年、新聞社が募集した新名勝俳句山岳英彦山の部でに久女の句「谺して山ほととぎすほしいまま」が金賞となった。

久女の随筆に「英彦山に登る」というのがある。11月、晩秋の淋しい山に様子が書かれている。女一人で、薄暗い杉木立のなかを行くのがためらわれる道のりであった。山頂では神宮の禰宜が、やさしく声をかけてくれる。「よくお独りでお登りでしたね。あなたで今日は朝から10人目です。」山頂から見える山を指さし、あれが雲仙、あれが霧島と教えてくれる。全九州の山々を眺めて、茶店の番茶をすすり、六助餅を食べた、とある。

動画で見ると、もちろん時代が違うし、道の整備も違うであろうが、久女が登った俤は所々に残っているような気がする。おそらく100年近く前の記事であるが、それを読みながら動画を見る楽しみに時間を経つのを忘れた。

コメント