晴耕雨読

耕すのは土だけではない。
心のなかこそ酸素を補給し、ゆたかな栄養で満たさなければならない。

七夕

2020年07月07日 | 日記

日帰り温泉の受付に大きな七夕飾りが出された。そういえば今日は七夕である。古来、祀られてきた七夕は、陰暦の7月7日であって、実は立秋を過ぎた秋の行事であった。乞巧奠(きっこうてん)という古代中国の行事では、7月7日夜になると、庭先に供え物をし、その前で女性たちが五色の糸を7本の針に通して、手先が器用になることを祈願した。機織りは女性の大切な仕事であった。糸を編んで布とし、衣服や夜具など生活の必需品をつくための女性の切実な願いであった。

日本に伝わって、竹笹に願い事を書いた短冊を下げる星まつりは、日本の風土の独特な風習となった。

七夕や昼あをあをと湯屋の澄み 秋元不死男

野には八丁とんぼが飛び、水辺に蛍が光る季節である。7月になったばかりなのに、季節ばかりが先を急ぐ。もう季節の先取りは止そうと思う。今日一日、そのなかのひと時、ひと時を大切に生きる。天才藤井7段の時間の使い方が、立派に見える。

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季節は進む

2020年07月06日 | 日記
桔梗は秋の七草である。季節を先取りするように早くも花をつけた。梅雨空が続き、雨が続く。熊本では、梅雨末期のような大雨となり球磨川が氾濫して、大きな災害となった。あの地震の傷も癒えていないなかで、再びの災害。これからも前線が停滞して、まだ大雨が降る予報である。被害の拡大しないことをひたすらお祈りする。加えて東京の繁華街を中心に新型コロナが不気味な感染拡大を見せている。テレビから流れてくるのは、暗いニュースばかりだ。

最近あまりテレビを見なくなったが、将棋の藤井壮太とサンドの博士ちゃんは気に入っている。昨日、人体博士ちゃんが登場した。藤井7段もそうだが、大人びた子ども博士ちゃんに、人間の未来の可能性が見えるような気がする。人体には、進化の痕跡があり、耳の小さな突起がかっての恐竜の耳の痕跡であることが興味深かかった。そんな博士ちゃんが人類の未来予想図を描いてた。頭でっかちで、手足は、太い神経で繋がっていた。

そんななかで本物の東大の博士が描いた人類の絵は2枚。一枚は今と変わらない人の絵、もう一枚は十字架がかかった墓場であった。飛行機が出来て100年と少し、その短い時間に人類は身体を進化させず、環境を生きるために変えてきた。わずか150年という地球の歴史からいえばわずかの時間に、多く文明を作り出してきた。そのことによって破壊した環境も数多くある。人類には未来はないかも知れないというのが、東大の博士の警告であった。

思えば、夏の猛暑、大雨、台風などは人間が快適に生きるための様々な技術革新がもたらした地球の温暖化の結果である。コロナの感染もこの人間の文明と大きく関連している。ある特定の地域にしかなかったウィルスが、これほどの勢いで世界中に拡散したことがかってあったであろうか。このような地球的な危機に、どのようなな叡智が出てきて人類を救うことができるのであろうか。子ども博士ちゃんにそんな期待を寄せるは、年寄りの浅はかというものだろうか。
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ハナレイベイ

2020年07月04日 | 読書
今日の山行は雨のため中止。裏庭にツユクサの花が濡れていた。朝の散歩をそこそこに、村上春樹の短編『ハナレイ・ベイ』を読むことにした。小説の舞台はハワイ州のカウワイ島のハナレイ湾。山に囲まれた大きな湾で、夏にはここでヨットやサーフィンを楽しむ人が多い。

海とサーフィン、自分には縁のない場所だ。しかも、ハワイの島とあっては、想像で辿るしかない場所である。この島の砂浜に毎年やってきてビニールチェアに座って海でサーフィンに興じる人たちを眺める中年の日本人女性がいる。名はサキ。ピアノを弾いて東京でクラブを経営する女性だ。

サキには死別した夫との間に生れた息子がいた。勉強が嫌いで、打ち込んだのは海に行ってサーフィンに興ずること。母子には、まともな会話もない。19歳になった息子がサキに言ったのは、ハナレイ・ベイでサーフィンをやりたいから滞在費と旅費を出して欲しいいうことだった。言い合いになって負けたのはサキであった。渋々と金を出してやったのだが、サキのもととに届いたのは、サーフィン中に鮫に片足を食いちぎられて息子が死んだという知らせであった。

2週間、東京での仕事を休んで、2週間、ハナレイ・ベイで滞在して海を眺めるのが、サキの恒例行事になった。そこで、サキはサーフィンに興じている息子の姿を思い浮かべるためだろうか。夏の終りには決まってここへやってきた。サキはこの島で、息子と同年代の二人の学生に会う。彼らもまた息子と同じように、ハナレイ・ベイでサーフィンを楽しみに来たのだ。今はいない息子の面倒を見るような気で、何かと世話をやくサキ。

この短編の肝は、二人の学生が、片足の日本人サーファーを見た、ということだ。10年以上ここへ通ったサキが見たかったもの。波間にふっと現れて消えて行った息子の亡霊。学生たちは、サキに代わってその姿を見たのだ。何故自分には現れないの、と問いかけながらベッドで泣くサキ。

この短編から伝わってくる昭和の匂い。こんなシングルマザーも、その息子のような生き様も時代の産物のように思われる。コロナ後にこんな風景が見られるのか、時はどんどんと進んでいく。
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ワルナスビ

2020年07月03日 | 日記
親水公園を歩いていると、どこかで見たような花、そして葉。まぎれもなく、畑で育てているナスの花の色違い、葉もナスの葉であるし、あちこちに棘が出ている。せせらぎの土手に、まき散らしたように繁茂している。家に帰ってネットで検索してみると
「ワルナスビ」とある。命名はかの牧野富太郎博士、繁殖力が強く駆除するのもやっかいなので、有害注意外来種に指定されている。その実は黄色く熟するが有毒で、害虫を呼び寄せるとのこと。散歩で見た花に、こんな特徴があることを知って驚いた。

戸外は好奇心をひくものが溢れている。山のなかで咲く花に興味を持つ人も多い。西洋では学校は寄宿舎を伴っている。週末には学生たちは寄宿舎を出て遠足に行く。そこで目にした自然は子どもたちの興味を引くものの宝庫であった。貝殻、石ころ、昆虫、植物。どれもこれも初めて目にするものは子どもたちの興味のまと、これを観察する目が、学問の基礎となる。貝殻や昆虫など興味あるものの蒐集、そして観察。博物学は、これら寄宿舎の生徒たちの興味から始まったと言える。

そこから少し歩くとノウゼンカズラの花がもう咲いている。空には梅雨の中休みの陽がまぶしい。明日からは東北南部で大雨の予報。磐梯山への山行は中止になった。ノウゼンカズラにも牧野博士の解説がある。

「茎は他物に攀縁して気根を出し高さ数丈に及ぶことあり、葉は対生し羽状複葉をなし、小葉は卵形にして鋸歯あり、7、8月の候黄赤色の大花を開く、有毒成分を含む」

この記述を読んだだけで、博士の観察眼の鋭さが伝わってくる。戸外に出て、好奇心を刺激されることは、心に若さを保つことの秘訣でもある。
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紫陽花

2020年07月02日 | 
霧雨に紫陽花の花が濡れていた。日にあたっているより、雨の中の方がその色合いが際立って見える。アジサイの語源は、ものの本によると、「あじ」は集(あづ)で、ものが集合すること、密集すること、「さ」は真(さ)で、「い」は藍(ゐ)で集真藍(あづさゐ)という説明が漢和辞典に出ているという。いかにも、花はびっしりと密集していて、家の繁栄の象徴のように思われてきた。万葉集に

あぢさゐの八重咲くごとく八つ世にを
 いませ我が背子見つつ偲はむ(巻20・4448)

とあるのは、次々と色をかえて咲く紫陽花のように、末永く元気でいらして、この花を見ながらあなたを偲んでいますよと、とやや揶揄をこめた歌になっている。

茅の輪が、夏越の祓に用いられているように、紫陽花にも同様に用いられた過去がある。自分の家の門に、紫陽花の切り花を結わえて下げて魔除けにした。同時に子孫繁栄、豊作を祈る季節の風習でもあった。
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