常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

玄関の花

2012年12月31日 | 日記


いよいよ今年も後一日。新年を迎えるため、南天と五葉松に菊をあしらって飾った。昔、生け花を習っていた妻の作だ。窓からの光を浴びて、きれいに見える。以前にも書いたが、南天は難転、難を転じて福となす、という意味に無理に解されて、万事成就でめでたいものとされている。そのため、正月の花材としてよく用いられる。縁起をかつぐという、しおらしい気持ちから、玄関の飾りに使った。

南天の実に惨たりし日を憶ふ 森 澄雄

起床前、中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を読む。義母の生き方を見るにつけても、人の死について、共感できる内容である。ヨガの仲間の元看護婦さんも言っていたが、「70を過ぎたら薬なんか飲む必要はないよ」ということの意味もわかる。

今年を振り返ってみると、一番の想定外は夏から秋にかけての異常な高温である。畑の植物が正常に生育できないことへのいらだち、どうしてもやることできない自分への苛立ち。来年こそは、もっと周到に準備して、野菜たちの健康な姿を見ることができるように努力していきたい。

来年は山登りの取り組みも、今年以上にやっていきたい。足腰を鍛えて、楽しく登り、いい写真をたくさん撮る。森羅万象にふりそそぐ光を見つめ、そこに生まれる素晴らしいシャッターチャンスを一つでも多く見つけたい。

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年の瀬

2012年12月30日 | 日記


年の瀬だが、夜明けの光が美しい。これから歳末寒気が来るという予報に、ユニクロに行き、フリースジャケットを買ってくる。軽く着こなせて、しかも暖かい。この店が世界中で人気があるのを納得する。すっかり押し詰まって、部屋を片づける。捨てられなかったものを思い切って処分する。心なし、部屋がすっきりしたような気分になる。なぜこんなことに気づかなかったのか不思議だ。

ことしも残すところ一日と少し、家族みなが、それぞれの年越しをすることを確認する。ただそれだけでほっと安堵の気持ちになる。今朝の空のような晴れやかな気で、古年を思いやる。先日採ってきた南天と松に菊の花を添えて、新年を迎える飾りにする。

遺るもの何をか書きし年暮るる 水原秋桜子

歳末に俳人は自らの作品に思いを寄せるが、自分のように市井に生きるものは、書き残すことに価する日を過ごせただろうかと胸に手を当てて見る歳末である。来る年が、もう少し明るい夜明けであることを祈りながら。
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月の詩

2012年12月29日 | 日記


夕空がそろそろ赤く染まるころ、東の山の端に月が出ていた。満月に向かって大きくなっている。こんな月を見ていると、月を詠った詩が思い起こされる。詩仙の名をほしいままにした盛唐の李白にも、月を詠んだ名詩がある。「子夜呉歌」の第三がそれだ。

長安 一片の月

万戸 衣を擣つの声

秋風 吹いて尽きず

総べて是れ玉関の情

何れの日にか 胡虜を平らげて

良人 遠征を罷めん

この頃の都・長安では、砧で糸を打って柔らげ、衣服を縫い、冬の寒さに備えた。都中にその音が響いたであろう。その女たちの夫は、遠く玉門関の守りのために出征している。月が冷たく冴え、秋風が吹くなか、夫たちの兵役はいつ終わるのだろうか、と女たちの溜息が聞える。

日本でも古くから、月は和歌や俳句に多く詠まれてきた。月は人々の暮らしのなかに、息づいていた。それに比べると、現代ではどうだろうか。中秋の満月のころには、月見の風習は残っているが、月の存在は、暮らしからどんどん遠ざかっているように思える。だが、夕空に見る三日月や満月は、昔のそれと変わらぬ姿で、人々を照らし続けている。
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しめ飾り

2012年12月28日 | 日記


1階の正面玄関に正月用のしめ飾りをつける。相撲の横綱を連想させる太いしめ縄だ。しめ縄は、神の占有する清浄な区域を示すためのもので、これを新年の門戸に吊るして、魔除けにする意味がある。もうすぐ新年になるが、一年がたつののが早いという感慨が先で、正月が待ち遠しいという気分はない。

子供のころは、「もういくつ寝るとお正月」と兄弟で歌いながら正月の来るのを待ったものだ。元旦には雑煮餅が楽しみだったし、何といっても「お年玉」が一番の楽しみであった。親戚の人が新年の挨拶にきて、子どもたちには「お年玉」をくれた。「お年玉」は唯一、貰った子どもたちが、自分の裁量で使えるお金であった。二日の買い初めに兄弟が揃って出かけた。雪道を小一時間かけて町の店に出かける。中学生になったとき、「中学一年生」の新年号を買ったのを誇らしく思ったことは、いまでも忘れられない。その雑誌のなかに、まるでこれからの自分が進む道が示されているような気がして、うれしかったのだ。

それから60年の年月が過ぎ去った。あの中学生のときの思いをふり返るとき、自分の歩んできた道は小さく、日陰の道であったような気がする。本当に自分の裁量で自分の道を歩くのは、これからである。自分の足を使い、身体を動かし、目を注意深くこらし、耳を傾けて見出すことのできる小さなよろこび。そのために大切に使う時間こそが、残された生を生きる意味である。

注連を吹く風に山暮れ町暮れて 山口いさを

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山形鉄瓶

2012年12月27日 | 日記


部屋に豆炭を置いている。多少二酸化炭素が出て匂いがするが、五徳の上に鉄瓶を乗せて湯を沸かすと、煎茶を飲むのに理想的な湯が沸かせる。昔は当然のこととして、湯を炭や豆炭で沸かしていたのだが、あらてめてお茶のおいしさを実感する。

亡くなった義父が鉄瓶や鋳物を作る会社に勤めていたこともあって、実家からしまってあった鉄瓶を貰ってきた。もう50年以上のものでが、デザインを見ても少しも古い感じはしない。この地方の鋳物の歴史は900年以前に遡ると言われている。平安時代、安部貞任、宗任の反乱を平定しに山形へ下向した源頼義に従ってきた鋳物師が馬見ヶ崎川の砂と千歳山にある土が鋳物に適していること見つけ、この地方で鋳物を作ったのが始まりと言われている。

山形鉄瓶は明治時代に、山形の鋳物師菊池熊治が岩手県水沢の田茂山鉄瓶に弟子入りし、南部鉄瓶の製法を山形に伝えたのが始まりである。山形市の銅町には保寿堂という、菊池熊治の末裔による店がいまもなお営業を続けている。今では、茶道の釜や鉄瓶などしかこの山形鉄器を使う人が少なくなったが、この伝統が失われていくことはいかにも惜しい。

コメント (2)
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