常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

満月

2012年10月31日 | 日記


良寛が文雅の道の友人である阿部定珍の来訪を受けた夜には、今夜のような月が出たであろうか。秋の月は雲にさえぎられ、雨に降られて見られないことも多い。阿部定珍は良寛が住んだ五合庵に近い渡部の庄屋で、酒造業を営んでいた。歌や詩文を好んでいたので、酒を携えて良寛を訪れた。その度ごとに、歌を応酬していた。

月読みの光をまちてかへりませ 山路は栗のいがの多きに 良寛

上の句では、友人・定珍との清談をいま少し続けたく引き止めようとする気持ちが詠まれれている。下の句ではやさしい思いやりの気持ちが巧みに表現されている。月光、山路、栗のいがなど、目に見える具体的なものがそのやさしさの裏打ちとなっている。

万葉集には
夕闇は道たづたづし月待ちて いませわが背子その間にも見む 巻4・709

これは三宅女が詠んだ妻問いの男を引き止める、艶かしいうたである。伊藤博はこの歌に
「夕闇は道が暗くて心もとのうございます。月の出を待ってお帰りなさいませ、あなた。せめてその間だけでもお顔を身とうございます」という解釈をしている。

女ごころの甘えや媚とともにやさしい心根が表現されている。良寛は、こんな歌があることを文雅に道にある友人と共有していればこそ、この宵の清談はいっそう興趣の深いものになったであろう。

満月の写真は、三脚を使って夜景モードで撮った。月は出始めであったので、もう一度試みようとした時は、既に雲に隠れてしまっていた。
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鮭の朝飯

2012年10月30日 | 日記


知人から新潟のお土産に鮭をいただいた。遡上してきた新鮭を切り身にして、天日に少し干したものだ。塩分がほとんどないので、焼いたものに醤油をかけまわして食べる。乾燥させたものだから、皮と身の間に油があつまり、しっかりした皮ともども実においしい。この一品があるだけで、朝飯が充実し、今日の一日が満たされた感じになる。

鮭は日本では最も親しまれてきた魚といってよい。鮭は淡水の川に遡上して産卵するが、孵化して3、4センチになると、再び外海に出て、主に北洋で回遊して成長する。ほぼ4年を経過して生まれた川に産卵のために帰ってくる。産卵期は9月から12月ごろまでだ。メスが川床の砂利や小石を掘って産卵すると、オスはその卵のうえに乳白色の精子をかけ、砂利で覆い隠して種族保存に最後の力をふりしぼる。

産卵と射精の済んだ親鮭は力尽きて死んでしまう。産卵のため川を遡上する鮭は、餌をほとんど食べず、貯えていた脂肪分がどんどん抜けていって、不味くて食用にならない。それでも上流で鮭をとる人々もいた。産卵前の鮭をとると、寒風のなかで縄で吊るして干しあげて一冬の蛋白源として利用してきた。山形県にある山村である鮭川などは、そんな鮭の利用が地名となった。

堰堤を躍り越えつつ鮭のぼる 藤田 右亟子

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千歳公園

2012年10月29日 | 日記


千歳公園の東側の道路の拡幅と馬見ヶ崎橋の架け替え工事が進行中だ。今日、公園の前を通って紅葉がきれいなので、カメラに収めてきた。雨上がりの微風に、紅葉した葉が音もなく降っていた。千歳公園には護国神社や国分寺があり、かっては薬師堂があったので薬師公園の愛称でも市民に親しまれた公園である。

舞ふ落葉秋のダンスと子の日記 松田 滋夫

5月8日の薬師祭には、露店や飲食店が軒を連ね、サーカスや見世物小屋など、年1回の祝祭空間として賑わいを見せていた。どんどん焼きや綿菓子など、昔懐かしい昭和の風景は、今も記憶に残っているが、いつの頃からか姿を消した。このお祭りに合わせて、全国からくる植木商による植木市は現在も続いているが、かつての賑わいはだんだんと縮小されていくようだ。

旧県庁から新築西通り、県立山形東高、千歳公園などとともに、洪水で市民を悩ませた馬見ヶ崎川を改修したり、埋め立てて今日の街の形にしたのは、初代県令であった三島通庸の功績である。旧県庁の東側には、三島通りがあって、県令の名は街の名として残されている。

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小春日和

2012年10月28日 | 登山


一雨ごとに秋が深まっていく。晴天で日だまりがあるとほっとする。ついひと月前、あんなにも暑く、堪えられずに体調を崩しそうだったのをすっかり忘れている。秋の日だまりを
「秋から冬になる頃の小春日和は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つ」と書いたのは、島崎藤村である。

「十月の戸たて医者」は医者が戸を閉めるほど病人が少ないことを言う。「十月の投げ木」は木を投げておいても自然に根がつくことである。それほど、生命にとって十月はよい季節である。だが、心地いい小春日和の後には、寒気をともなった秋雨が降ってくる。外出がおっくうになるのもまたこの雨の日だ。

見えていて遠き隣や秋の雨 高濱 虚子

栗と柿を知人からたくさんいただいた。今年の柿は豊作で、一粒は小さいが、秋の味がする。栗は鬼皮を剥いて渋皮煮にする。重曹を入れて煮るので、実は柔らかく、砂糖の甘みがいっぱいだ。

なかんずくうましと思ふ柿と栗 夏目 漱石

秋の味覚を賞したように見えるが、前書きに「演説会」とあるから、熊本五高の弁論大会で審査員をした漱石先生の評である。柿のような顔をしたのと、栗みたいな顔とアダ名したのである。『坊っちゃん』のアダ名も、すでに熊本時代に始まっていた。

漱石の句をもうひとつ。

梁上の君子と語る夜寒かな 明治30年

梁上の君子とは泥棒のことである。梁の陰に賊が隠れているのを知った親が子を呼んで、泥棒になるなと諭していると、賊が降りてきて謝ったいう話がある。この句では天井裏のネズミと見立てるのが順当だ。漱石はネズミとどんな話をしたのか、想像すると楽しい。
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つるかめ助産院

2012年10月26日 | 読書


年をとると涙腺がゆるんで涙もろくなるというが、本当らしい。小川糸の『つるかめ助産院』を読んでいて、感動的な場面に来るとどうにも涙が止まらないのだ。そういえば、子どものころ、『フランダースの犬』を読んだときもそうだった。そんな子どものころの感情の起伏が、年を重ねて戻ってきたのであろうか。

例えば、長老が海に落ちて死んだシーン。
「私とパクチー嬢は、肩を抱きあい、お互いを支えるようにして泣いた。二人とも、滝のように涙がこぼれて、いつまでたっても止まらない。私がつわりで苦しんでいた時、水中出産用の湯船に薪をくべてお湯を沸かしてくれたのは長老だった。その時に交わした会話は何気ないものだったけれど、思えば長老は、人見知りの私を、優しく見守ってくれていた。いつだってニコニコと笑うばかりで、長老が不機嫌にしているところなど、一つも思い出せない。たった十時間前だって、あんなに元気にタコと格闘していたではないか」

こんな文章に涙を流している姿を見て、妻は、「何、泣いているの」と問いかけてくる。理由を説明するのももどかしい気がする。たかが小説で泣くなんて恥ずかしい気がする。思えば、昨年の震災の後、こんな現象が増えたような気がする。茫然自失していながら、生きていこうとしている被災した人の姿がテレビに放映されるたびに、自然と涙が流れた。

仙台のT氏から、震災の生々しい体験を聞く機会があった。マンションの13階にいて、地震のエネルギーが人体や家具に及ぼす力がいかに大きなものであるか。生と死の分かれ道は、ほんの偶然に過ぎない。また、あの時の記憶や映像がまた蘇えってきて目頭が熱くなる。涙を流したり、笑ったり、怒ったり、感情の起伏を制御する機能が年とともに衰えているのかも知れない。

この小説は主人公のマリアが出産するシーンがクライマックスであり、結末である。いわば女性が出産という人間の最大の営みを経験することによって生長を遂げていく様子を書いた小説である。家出した夫が赤ちゃんが生まれ落ちるときに、唐突にも帰ってくる。夫に何があったのか、どんな事情で帰ってきたのか。作者はそのことに一切触れない。あたかもそれは、また別な小説で書きますと言わんばかりなのだ。そのシーンを不自然だと思いながら、読むのだが、新たな涙はまた止まらない。


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