常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

この半年

2019年06月30日 | 日記
今日で6月が終わり、今年も半年が過ぎた。半年を振り返って、やはり気になるのは、これからの健康年齢ということになる。1月には、冬の里山を歩いて、歩行に異常を感じた。仲間に心配され、脳神経科で脳MRIを撮ってもらった。この撮影では異常は見つからず、運動不足による疲労であろうということになった。

その後、毎週のように山歩きをしているが、特に不安を感じていない。しかし、毎日の運動量は確実に減少している。少しでも、健康寿命を保つため、食生活とストレッチによる筋肉運動を取り入れている。夜の読書生活も、次第に減少を見せている。文庫を一冊一晩で読むなどということは、夢物語である。

先日、愛読しているブロガーから刺激を受けて、村上春樹の『騎士団長殺し』(新潮文庫全4冊)を購入した。こちらは、好きな作家ということもあって、一冊2晩で読み終えることができた。梅雨時の徒然を慰めることができて、ひとまず胸をなでおろした。

この半年を振り返って、畑仕事も山登りも、本読みもどうにか平常を維持できていることを喜びたい。
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ブナの森は霧のなか

2019年06月29日 | 登山

梅雨のさなかに発生した台風3号。今日の天気は、10日前から雨、木曜日には大きな確率で大雨と予報されていた。台風の進路が関東をかすめて、太平洋の東海上へ抜けると予想された辺りから、今日の尾花沢は雨マークがとれ、曇りの予報となった。今月の山行は梅雨空のため、3週続けて中止となっている。頂上からの展望はあきらめ、幻想的な霧の風景を見ることに切り替えた。

尾花沢市細野。山形百名山の御堂森、太平山の2座の麓の集落である。朧気川の上流に位置する。ここのは縄文時代の細野遺跡があり、山地の恵みで命を育んだ縄文人が、この地区の先祖かも知れない。江戸の初めまで最上領で、細野村と称し、村の石高790石、家の数101、人口495人であった。

 

現在は100戸足らずの戸数、人口250人という過疎の村である。近年、農家レストラン蔵をここの主婦たちの手で開き、両山への人を集めるイベントを行い、空き家も目立つがこの里への移住も歓迎していると聞く。これから企画されているイベントは、8月11日御堂森山の日記念登山、10月27日新そばと秋の味覚祭りなどがある。

御堂森の登山口には何故か黄色いポストが置かれている。入山する登山者はカードに記名して投函し、その安全確認の一助になっている。本日の参加者8名、内男性3名。山形を6時に出発、天童道の駅6時半集合とする。ここから細野集落、レストラン蔵まではほぼ1時間、その後農道から林道を経て8時前にここに着く。春に下見に来た折は、狭い林道は普通車では厳しいと思っていたが、普通乗用車でも注意して登れば大丈夫であった。要所に看板が設置され、道を間違えることもない。
 
山道は下草が伸び、昨夜来の雨で露を含んで、靴やズボンを濡らす。道は防火塁というのか、土盛りされているので、歩きやすく、道に迷う危険もない。朝のうち想像していた通りの霧で、山中は幻想的な風景になっている。小鳥の声が、澄んだ鳴き声を聞かせてくれる。「鳥が鳴くというのは雨が降らないしるしです」と、新参加Hさんが言った。久しぶりの山行で、列のあちこちから笑い声が聞こえてくる。

歩き始めて1時間、GPSで確認すると、半分近くの行程を来ている。この辺りから、急登が始まる。気温は高くないが、高い湿度で身体から汗が流れる。水分補給を小まめに取る。この会から、ハイドレーションシステムの給水に変えた。やはり、給水口が手元にあるのは、心強い。
 

ものの本によると、ブナ林があるのは、ヨーロッパ、アメリカ東部と日本の3ヶ所に限られているという。中にでも日本のブナ林は、氷河期などで受けた被害が少なく、生き残りのもので、外国の研究者の垂涎の的であるらしい。日本では大陸のような大規模な氷河は発達せず、第三紀の植物群が失われずに生き残った。モクレンやトチノ木のような原始的な植物が見られ、ブナ林そのものが生きた化石なのだという。

山道には、春咲き誇ったイワウチワの大群落が、その葉を大きく広げ、花茎の先端には実をつけている。花はなくとも、その群落がいかに大きなものであったか容易に想像できる。

やがて瘤つきのブナが見えてきた。ここから、頂上への一番の急登が始まる。会の人たちも、3週間も山登りから遠ざかっているので、短いながらここの急登は、身体にこたえるらしい。登山口から2時間半、頂上に着く。春には雪に覆われていた山頂だが、草本や灌木が生えて、標識を見なければあの雰囲気はない。予想した通り、周辺の山の眺望はない。

ここで早めの昼食。雨の心配で、休憩を早めに切り上げて下山。登山口付近になって、雨がぱらつく。上だけカッパに着かえるが、間もなく雨は過ぎて行った。どの顔にも満足感が漂う。帰路、徳良湖のはながさの湯で汗を流す。雨と汗に濡れた肌に心地よい。

 

 

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こころ

2019年06月28日 | 日記

萩原朔太郎の少年時代の詩に「こころ」がある。生涯の友となった室生犀星を感嘆させた詩である。萩原はこころが移ろい、変化していく様相を紫陽花の花に譬えた。

こころをばなににたとへん

こころはあじさゐの花

ももおいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。


こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめど

かなしめどもあるかひなしや

ああこのこころをばなににたとへん

この詩が愛唱されて久しい。音楽家によって曲がつけられて、合唱曲となり、吟譜がつけられて詩吟として吟じられてもいる。大正から昭和の初め、朔太郎の生きた時代は、大きな嵐が吹き荒れていた。


 

 

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キュウリ

2019年06月27日 | 日記

ベランダでサフランモドキが咲き出すころ、キュウリの初物が採れ始める。若採りのキュウリは、生で味噌をつけて食べるとおいしい。キュウリを生で食べるのは、世界でも珍しいらしい。この原産地はヒマラヤ山麓と言われている。カラスウリのような恰好で、ゴーヤのように苦いのが原種である。日本に入ってきて食用になったのは、江戸時代で、ここで品種の改良が行われ、苦みのない江戸っ子に好まれるものとなった。

キュウリの特性として挙げられるのは、その生育の早さである。収穫の最盛期には、畑を二度見なけらばならない。朝、採り残すと、翌日には大きくなり過ぎて生食に向かなくなる。都市として急成長した江戸で、誰もが口にできる成長の早いキュウリは、うってつけの食べ物であった。江戸では、急増する人口対策として、山を削り海を埋め立てて、新しい土地ができた。膨大な生ごみ、下肥が近郊の農家で野菜作りの条件ができていった。日本各地から種を集め、近郊の農家に配布して食料増産が行われた。

水桶にうなづきあふや瓜なすび 蕪村

江戸っ子の初物好きも、キュウリの普及の一因になったようだ。加えて糠味噌漬け、一度に水分と塩分が補給できるのは、大いに魅力であった。今では、一年中、スーパーの店頭にキュウリが並ぶが、この時期の初物は、やはりおいしい。冷やした生キュウリのサラダにもよい。旬に合せて食べる、古来の習慣をもう一度思い出させるのが、この時期のキュウリだ。

 

 

 

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竹の秋

2019年06月26日 | 日記
遊創の丘まで散歩した。ここに来てから、2ケ月以上が経つ。梅雨の中休み。貴重な晴れだが、気温が上昇して、今日は32℃の予報が出ている。芝生の緑が美しい。竹林の葉が黄色に黄葉している。この季節、竹は根の方でタケノコを育てるので、葉に栄養がいかず、黄色くなって落葉する。いわゆる竹の秋だ。
 
竹の秋菜園繁りそめにけり 石田 波郷
 
竹林の中では、タケノコが勢いよく成長している。親の竹の葉が繁っていると、若竹に日が届かない。そのために、親竹は葉を落とす、という説もある。竹が種族を維持するための摂理であろうか。自然はよくできている。
 
中国の三国時代の呉に、孟宗という人がいた。その母は、孟宗が学問を修め、出世することを願い、子のために厚く大きな蒲団を作った。学問を志す人間には、貧しい環境で育ってものも多い。そうした人と交友が結ぶことを願って作ったものであった。
 
孟宗の母は筍が大の好物であった。自分を育ててくれた恩に報いようと冬に筍を食べさせようと、竹林に入って願ったところ、不思議にもそこに筍が生えてきたので、母に食べさせることができた。そのために、筍に孟宗竹の名がついたという。いわいる「二十四孝」の一人に数えれているのが孟宗である。
 
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