常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

2021年07月09日 | 芭蕉
アパートの非常階段で、今年初めて蝉をみた。最初、仰向けで腹を見せていたが近づくと、力強く起き直り、またそこでじっと止まった。階段の鉄板があたたまっていたので、そこで脱皮したあとの体力を養っていたのであろうか。数分後に、羽をふるわせて飛び立った。土の中から出て、殻を脱ぎ捨てて、活動を始めるまで、蝉には太陽の光が必要だ。今日のように雨の日は、動き出すまでやや時間を必要とするらしい。まだ、あの鳴き声を発するまでの力はないようだ。夏至をすぎて、24節季の夏至の次候は「蝉始鳴」。その次は「半夏生」と移っていく。太陽暦では、蝉が鳴くのは7月初めであるから、この季節に土から出てきた蝉を見かけるのは、時季を得たと言えよう。
 
閑さや岩にしみ入る蝉の聲 芭蕉

「おくのほそ道」の旅で、芭蕉が山寺を訪れたのは、元禄2年、今の暦で7月13日である。蝉が鳴きはじめる時期は、芭蕉の時代も、今と変わらなかったようだ。奇岩が山中にある山寺で、蝉は岩に止まって鳴いていた。岩もまた、太陽の熱に温められて、蝉が脱皮するには、都合のよい場所であったであろう。「蝉噪ギテ林愈々静かなり」漢詩の手本に上げられる王籍の句だ。芭蕉の句には、こんな中国の詩が時おり顔を出す。芭蕉の素養が、日本の和歌に止まらず漢籍にあったことが分かる。

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 芭蕉

地上に出てからの蝉の寿命は短い。元気よく鳴いて、雌を呼びよせているが、十日ほどで命が尽きる。ぎらつく太陽のなかで、蝉の亡骸を見ることは珍しいことではない。ベランダの鉢植えに、たまに蝉がやってくることがある。至近距離で聞く、蝉の鳴き声の大きさに驚かされる。今年もまた蝉しぐれの季節が迫ってきた。


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悠創の丘、秋色

2020年11月11日 | 芭蕉
昨日、瀧山に2度目の冠雪。里は時雨模様であったが、3時過ぎに青空が広がってきたので悠創の丘を散策した。吹く風は冷たく、瀧山に三度雪が積もると、里に雪という俚諺に説得力が増している。カエデが紅く輝き、芝生が黄色に色づいていた。三々五々、カメラを携えた人たちが、晩秋の景色を探索していた。丘からは、夕暮れが近づく市街が広がり近くには芸工大の校舎の屋根が見えていた。

しぐるゝや田のあらかぶの黒むほど 芭蕉

句には「旧里のみちすがら」とあり、晩年に立冬のころ、故郷を訪ねるときに詠まれたものだ。芭蕉には時雨を詠んだ句が多い。なかでも「旅人と我名よばれん初しぐれ」や「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句が記憶に残る句だ。晩秋から初冬、芭蕉の句境にふさわしい、景色があったのであろう。高浜虚子はそんな芭蕉に親しんでいたせいか、京都で時雨を求めて散策したことがあった。祇王寺、高雄、高山寺を散策するが、やっとぱらぱらと時雨が来たときはすっかり日がおちていた、と随筆に書いている。今年は、何故か時雨模様になる日が多い。多分、虚子が羨むほどに時雨が多く、気温も低い。その分郊外の悠創の丘の付近では、晩秋の紅葉がひときわ鮮やかだ。
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夏痩せ

2020年08月09日 | 芭蕉
猛暑のあとにいきなりの梅雨寒。雨のなかのいやな湿気と、不快な暑さ。どうも身体がだるい。早朝に目が覚めて、日中突然睡魔が襲ってくる。気候の変動に、身体の動きがついていかない。それでも、ウォーキングを始めると、身体全体に神経が蘇ったように、身体を動かすことの心地よさが身体の隅々にまで広がっていくような気がする。食欲も落ちて、体重はこの半年で3㌔ほど減った。自分の求めていた60㌔を、わずかだが切っている。夕方、小雨のなかで、小菊が寄り添って、会話をかわしているような風情である。

起きあがる菊ほのか也水のあと 芭蕉

深川芭蕉庵で詠んだ句だ。雨に打たれて倒れてしまった菊が、雨が上がって起き上がった様子を詠んだものだ。「ほのか也」という詩語に、この句の眼目を見ているのは安東次男だ。この菊の姿に、芭蕉はこれから予定している自らの旅の、心用意を読みとっている。

言われてみれば、公園への道ばたの菊にも同じようなほのかさが見える。それは、夏痩せで気力が衰えはじめた筆者への応援歌である。ワーズワースの詩の一節

はた、草には光輝、花には栄光がある
時代を取り返すこと能わずとても何かせん。
われらは悲しまず、寧ろ
後に残れるものに力を見出せん。
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深川芭蕉庵

2020年06月02日 | 芭蕉

古池や蛙飛びこむ水の音

ご存知、松尾芭蕉が貞享3年、江戸深川の芭蕉庵で詠んだ句である。芭蕉庵といえば、東京の常磐町にある芭蕉記念館を思い出す。だが、芭蕉庵は三度建てられている。延宝8年に、住んでいた日本橋小石川から、森下町長慶寺門前(現江東区森下町)に転居した。その界隈は、墨田川まで500m、小名木川まで400m、西の六軒堀、東の五軒堀のすぐそばで帆船がひっきりなしに行きかっていた。そのため、この庵を泊船堂と名付けた。杜甫の住んだ川の辺を意識した。

この泊船堂へ、門人の李下が、一株の芭蕉を植えてくれた。土の地味がよかったのか、この芭蕉が思いのほか、大きく育ち、誰云うこともなしに芭蕉庵と呼ばれるようになった。もともとの俳号は桃青であったが、ここに来て芭蕉庵桃青と称すようになり、その後芭蕉が俳号となっていった。ところがここに住んで2年のころ、駒込で出火した江戸の大火が墨田川を越えて深川一帯をも焼失させた。芭蕉庵も焼け、甲州の谷村に門人を頼って疎開した。

門人、知人の寄進で、二度目の芭蕉庵が出来たのは、翌天和3年である。場所は江東区常磐町で、旗本の下屋敷の一部を借地した。前掲の句が詠まれたのはこの庵である。ここにも門人たちが芭蕉を植えてくれた。この庵に住むこと6年、芭蕉は意を決して奥の細道の旅に出る。この紀行にも書かれているように、この庵も人手に渡し、旅で死も覚悟しての旅出であった。

そもそも、芭蕉は便利のよい日本橋から、辺鄙ともいえる深川へ転居したのであろうか。談林派の句調からの抜け出るためと、理由づけられていうるが、さる学者の説がある。それは当時、妾で芭蕉の身の周りを世話していた寿貞と甥の桃印が密通して駆け落ちした。このことが、市内の話題にならないようにすぐに転居して、身を隠すすには丁度いい深川を選んだという説である。この話はあくまでも推量で、確たる証拠があるわけではないらしい。俳聖として、その才能ばかりが伝わる芭蕉だが、こんな人間的な悩みあったのか、と想像してみるのもあながち的外ればかりとは言い切れまい。
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義仲寺

2019年10月24日 | 芭蕉
時雨忌は、11月の第2土曜日、大津市の義仲寺で行われる。松尾芭蕉が世を去ったのは、元禄7年10月12日、長崎に向かう旅の途中、大阪で病に倒れ、多くの弟子たちに見守れながら亡くなった。その日を時雨忌として、墓のある義仲寺で、法要と句会が行われる。この日は旧暦であるから、新暦に直せば11月ということになる。芭蕉は

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

の句を残しているが、この句が辞世と言われている。この句を詠んだのは、亡くなる前の8日で、病中吟となっている。そして芭蕉は、義仲の墓のある大津の寺に送り、義仲と自分の墓を並べ建てるように、遺言した。

芭蕉は木曽義仲という武将が好きであった。義経も好きで、奥のほそ道の旅で、平泉を訪れたのも、その墓に参拝することが、目的のひとつであった。だが、好きな武将であるが故に、その隣に墓を並べよ、という意図は弟子たちにもよく分からなかった。そのため、翁は湖南の風光明媚をことのほか好まれたので、その地で眠りたいのだろうと解釈していた。

辞世といわれる枯野の句を読んでみると、病で動けなくなっているが、夢のなかでは枯野を駆け回っている。辞世というよりも、死にきれない無念さが、句に出ている。
考えて見れば、木曽義仲も、志しなかばにして死を遂げている。そうした、無念の者同士が墓を並べて、あの世へと旅立ちたい、それが死に臨んで芭蕉が考えたことであったのではないか。

義仲寺には、保田与重郎の墓もある。中谷孝雄らとともに「日本浪漫派」を結成した作家で、芭蕉の研究にも熱心であった。中谷孝雄は、晩年、義仲寺の住持となり、芭蕉と保田のあの世での安寧を祈った。
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