常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

肘折温泉

2012年05月31日 | 日記


快晴、朝方の気温13℃。肘折温泉に行く。新緑と山菜を求めて例年行っていた肘折だが、ことしの大雪で温泉付近に地崩れが発生、不安であったがこのところの好天でもう雪も融けただろうと出かけた。次年子を過ぎて、周囲の山は緑が濃く、紫の藤の花が今をさかりに咲いていた。

肘折へあと13キロの表示があってすぐに、従来の道が通行止めとなり、迂回路が看板で案内されている。集落が所々にあり、道も思ったよりよく、車は順調に進んだ。だが、肘折へあと8キロの表示あたりから、道が細くなり、そしてつづれ折になる。制限速度30キロ、片側交互通行で停車を余儀なくされる。

峠の頂上近くで道の両側に積雪が現れる。急に木々の芽が小さく、新緑さへいまだしという感じだ。肘折に近づいて、広い農園が見えてくる。関係者以外立ち入り禁止の看板が随所に見える。温泉が見える小高い丘から銅山川が見える。雪解け水で見るだけで水量が増えているのがわかる。

ワラビは萌えだしたばかりで、小さな頭が顔を見せているに過ぎない。フキノトウ、コゴミを採る。枯れ草の間からイタドリが伸び始めているが、所々にシオデがすっと立ち上がっているのに出会う。シオデはもっと時期が遅いと思っていたが、日当たりのよいところではほかの草にかくされず見つけることができた。

それにしても雪の被害がこれほどとは思わなかった。明日から6月だというのに、雪が残り、山道のガードレールは雪の重みでグニャグニャに曲がっている。温泉近くのトンネルは通行不能で、方々に土砂崩れの崩落の跡が見える。この状態では観光客の呼び込みも難しそうだ。



肘折を後に、村山市の湯船沢温泉に向かう。午後の太陽がまぶしく降りそそぐ。ここは茅葺の屋根をいただく、ひなびた一軒家の温泉だ。親戚の子が嫁ぎ、女将家業も長くなった。久しぶり女将と話すと、子どもたちはそれぞれ結婚し、二人の孫ができたという。「もう、おばあちゃんです」と、笑った。近く土手でワラビを採る。

犬を連れたおばあさんが庭からギンボを採って出てきた。先代の女将さんだ。90を過ぎても愛犬と話しながら、元気そうだ。いま、デイサービスに通っているという。「もっと欲しかったらまだまだあるから」といって、採ったばかりのギンボを土産がわりに手渡してくれた。「ところでどちらさんだったかの」元女将の記憶は薄れていた。
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三里四方の野菜を食べろ

2012年05月30日 | 農作業
食べ物に関することわざは、たくさんある。サツマイモが根付き、小松菜や山東菜は疎抜きされるのを待っている。野菜を作りながら、『食物ことわざ事典』(平野雅章)をひもといて見るのもたのしい。

家庭菜園をやってみて一番感じるのは、取立ての野菜は味が違うことだ。収穫した野菜を半日もおくと、味はたちまち落ちてしまう。スーパーに並んでいる野菜は、収穫して店頭に出るまで少なくても2日はかかる。子どもにこんな野菜ばかり食べさせていては、野菜嫌いの子になるのは必定だ。

このことわざわは京都で言われたもののようで、「三里四方の野菜を食べていれば、長寿延命疑いなし」というのを摘めたものである。三里四方の農家なら、朝取りの新鮮な野菜を京都の消費地へ運んで行ける。鮮度のよい、ミネラルたっぷりの野菜が提供できるわけだ。

ところが最近の野菜は、遠く離れた大生産地から、消費地へ運ばれる。初物を早く食べたいという消費者心理が、生産地と消費地の距離をますます遠いものにしている。木で完熟したトマトはおいしいが、いまの物流の仕組みではとても完熟するまで畑や木にならしておくことはできない。そこで完熟前に収穫し、倉庫やトラックの中で色づくを待つのである。

これでは子どものころ裏の畑でもいで頬ばった、あのトマトの香りと感触は味わうことはできない。完熟した野菜や果物のなかにこそ、本来野菜やくだものが持っている栄養素があるのであり、おいしさはその栄養素をたっぷりと味わうことでうけとることができる。

近年、産地直売の野菜売り場が人気を集め、定年を迎えた人たちが自分で畑を確保して野菜作りをしているケースが増えているのも、このことわざに由来している気がする。食へのこだわりというのではない。戦後のあの食料不足に時代に味わっていた身近な野菜がなくなっているのが、この飽食といわれる時代の現実なのだ。

初物のなかできふりはばかにされ

秋茄子はしうとの留守にばかり食ひ

ご亭主が留守でかぼちゃの値が出来る  (柳樽)
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安部仲麿

2012年05月28日 | 日記


吟詠大会の和歌の部で多く吟じられたものに安倍仲麿の「唐土にて月を見てよみける」と題する和歌があった。

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも

百人一首にも入った人口に膾炙した歌である。天の原は青海原と書かれているものもある。空が広がる様をこう表現した。夜、この広い空をはるかに見渡せば、月が面白く出ている。あの月は、ふるさと奈良の都の三笠山から出ている月と同じであるが、長く唐土に住んでいてそうは感じなかったが、ここ明州でふるさとへの出発を前に別れの宴を開いてもらい帰ることを意識したゆえか、あの月を見ると三笠山から登った月が思い出され、ふるさとに思いがいくことだ。

望郷の歌である。安部仲麿は、霊亀2年(716)元正天皇より遣唐使として唐へ渡り、留学生として唐へ残った。私は子どものころ、百人一首にまつわる伝説を祖母の夜語りで聞いた。テレビも電燈も絵本もない時代である。寝入る前ふとんの中で、祖母はすらすらと歌を詠み安部仲麿の話をしてくれた。

「同じ留学生にな、吉備真彌という秀才もおったそうじゃ。このとき仲麿はまだ16歳であったとよ。歌や詩をつくることが上手だった仲麿は、皇帝からも認められて、唐の役人になったぞよ」岐阜から北海道へきた祖母も、仲麻呂の歌のように、夜月を見てふるさとへ思いをやっていたのかも知れない。

「唐の国は広いでの、僻地へ蛮族の護りのため派遣されるとな、僻地の月を見て、親、兄弟も友人も同じ月を見ているなと国へ思いをやるのだそうな。この歌の意味を唐の国の詩になおしたら、宴席に集った友人たちは大いにほめてくれたそうな。なんでも王維とか李白とかいう高名な詩人もいたそうじゃ。だがの、舟に乗って帰ろうとしたんだが、大風にあって舟は海を渡れず安南という地へ打ちあげられて帰国を果てせずにしまったとよ。」

話は吉備真備へいく。
「一緒に留学した真備はな、詩を作るが仲麿のようにうまくなかったそうじゃ。だが、秀才でな学問に優れておった。唐の国のお役人に頼んで、史記、漢書などの唐の本をたくさん買い込んで日本に帰ってきたんじゃ。日本の国を作るもとになる大事な本じゃった。だからの真備は日本の朝廷で学者になって、若い官吏に唐の政治や詩や学問を教えたそうじゃ。真備の位はどんどん上がっていったんじゃ。」

「天皇は国作りに役立つ学問をもっと取り入れたいと思ってな、真備をまた唐に遣わしたんじゃ。真備は唐に入ったんじゃけど、今度は唐の役人は、真備が秀才だとの評判があんまり高いもんじゃから、妬んで試してみたそうな。長安につくとすぐに、真備は鬼の出る楼に閉じ込められてしまったとよ。高い楼でな、そこから降りることもできず、食べるものもなかったんじゃ。」

「夜になって、鬼が真備のいる楼に姿を見せたんじゃ。鬼は真備に意外なことを話したとよ。わしは、そなたと一緒に留学した安部仲麿だ。わしの詩が上手なことを妬んだ役人たちが、ここに閉じ込めての、食うものもなく、飢えて死んでしまったんだ。だが、奈良の都にいる親兄弟が忘れられぬ。いまどうしているか、教えてくれ。真備が、みんな息災でいると告げると、この鬼になった仲麿はよろこんでの、そなたにこの国の役人が企んでいることをすべて教えよう、と言ったんじゃ。」

「第一はな「文選」という難しい本を読ませて、真備が間違えるのを笑ってやろうとしている。鬼の仲麿は、皇帝の前で儒者が「文選」を読むのを一晩中聞かせて、真備が覚えてしまうのを助けたんじゃ。第二はな、囲碁で真備を打ち負かそうとしているとよ。囲碁を知らない真備に、鬼の仲麿が一晩特訓して教えたんじゃ。それで、真備は囲碁の上手1目勝つことができたんじゃ。第三はな、高名な宝志和尚の詩を読ませるという。これには仲麿も神仏に読ませてくださいと、お祈りするしかなかったとよ。そうしたら、一匹の蜘蛛が、その詩の上を這い歩くので、それにそって読むと、なんと正解じゃった。」

「第四はな、役人は真備をまた楼に登らせて食事も与えない、という戦術に出たんじゃ。
そこで鬼の仲麿が持つ双六の筒に唐の国の日月を閉じこめてしまったんじゃ。あたりは真っ暗、驚いた役人が確かめると、真備が秘術を使って日月を閉じ込めてしまったことがわかった。そこで、真備を楼から下ろし、早々に帰国させたんじゃ」

江戸時代に生まれ、学問を習ったこともない祖母が、どうしてこんな話を知っていたのか、知る由もない。祖母は農作業に忙しい一家の食事をまかない、家の周りを片付け、小さな子どもたちの面倒を見、そして一家の大黒柱である父に、助言をしていた。朝、朝食の前に、湯飲み茶碗に一杯の焼酎を飲むのが日課であった。仲麿の一首の歌から、こんな祖母の思い出が蘇ってきた。





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24年 吟詠秋田大会

2012年05月28日 | 詩吟


日本詩吟学院の東北地区吟詠大会が5月27日(日)秋田県民会館で開催された。
昨年に予定されていた福島大会は3.11の震災のため中止、2年ぶりの開催となった。東北6県に在住する日本詩吟学院の会員が集まり、漢詩独吟、和歌独吟、合吟の全国大会に出場する吟者とチームを選抜するコンクール吟が行われた。
テーマは「深めよう絆、今日の感動明日への力 拓け東北 復興の願いを込めて!」とあり、元気を詩吟に込めて全国へ発信することであった。



会場となった久保田城跡の堀はツツジが満開。4年ぶりの訪問であった。朝、5時にバスにて山形を出発、会場到着は9時という遠征であった。
震災を受けた福島、宮城、岩手の各県からも代表が出場、優秀な成績を収めた。次回開催地に決まった福島県の福島岳風会の佐久間岳淳会長から、「福島はいまだ原発の風評被害に悩んでいるが、ここで生きて頑張っている。詩吟もきっちりと吟じ、次回大会を立派にやりとげたい。皆さまの御来県を待っています」という力づよい挨拶があった。

わが山形岳風会男子チームは入賞を果たせず撃沈、女子チームは努力賞であった。独吟では
漢詩で伊藤美風さん入賞、土田華岳、菅巧岳さんが努力賞、和歌の部では安食翔岳さんが山形岳風会からの入賞であった。
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鰹のたたき

2012年05月26日 | グルメ


晴れ。きのう、静岡の焼津に住んでいる妻の妹から鰹のたたきが届いた。大ぶりの鰹を焼いたものが氷詰めにされて送られてきた。さっそく夜、万能ネギと生姜をたっぷりかけて、酢醤油でご馳走になる。美味、さすがに焼津で作ったものだけに、こちらではめったに食べられるものでない。

ことしは鰹が豊漁と聞いているが、初鰹がわが家の食卓にのぼるのはこれが二度目である。江戸の初鰹は、初物好きの江戸っ子の垂涎の的で、その値段は女房を質に置いて買うというほど法外であった。文化9年の4月に、魚河岸に入荷した鰹は17本。その内6本は将軍家が買上げ、3本は料亭八百膳が2両1分で買い、8本を魚屋が買上げ、そのうち一本を中村歌右衛門が3両で買って、大部屋役者にふるまったという話がある。

何しろ当時の下女の1年間の給金が1両2分であったというから、初鰹の値がいかに高価だったかが分かるというものだ。落語にこんな話がある。

初鰹を奢らんと一杯しかけるところへ、近所から、「急にお目にかかりたい、ちょっと、ちょっと」と、呼びに来る。「なむさん、不意打ちだな。こりゃ、六助、このまま置いていくぞ。気をつけよ」と、いいすてて出でていく。六助も、そこら片付けているうちに、猫めが刺身を半分ほど食ってしまう。六助おどろき、猫をおしのけ、ついでだからと、残りも猫のせいにしようと、2箸3箸舌鼓。そばから猫が「ふうふう」と怒る。

ところでこの鰹のたたきだが、刺身は魚屋から下ろしたもの半身なり買ってくれば容易に食べられるが、たたきとなると簡単ではない。辰巳浜子の「料理歳時記」を開いて見る。

「鰹の胴体はつるりとした皮です。この強靭な皮を、焼くことによって食べやすくした、昔の人の知恵には頭が下がります。焼くには藁火が定石とされていますが、都会のアパート生活でそんなことをしようものなら一大事にいたります。ガス火の焔で充分です。一番強い直火でパチパチと焼きます。焼きはじめると表面に脂肪の小粒が浮き出て、それが焦げるとはじけてパチパチと音を立てます。ちょうど胡麻を散らしたような焦げ目が魅力です。焼きめつけてから、氷をたくさん氷水へとっぷりつけて急激に冷やします」

昔、水戸に3年ほど住んでいたことがある。桜の季節が過ぎ5月ともなると、魚屋には新鮮な鰹があふれていた。1尾を買って4人家族で食するのだが、子どもたちはまだ小さかったので、半分は自分が食べた。そんな食の経験が、いまなお残って、この季節になると鰹に目がいく。

目には青葉山ほととぎす初鰹 芭蕉

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