常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

漢字

2022年05月30日 | 日記
散歩コースに咲く花は、次々に新しい花を登場させる。同時に、咲き終わって、主役の座を新しい花に譲る数々の花。梅雨入り前は、忙しい季節だ。牡丹に変わって、優雅な姿をみせる芍薬。戸外に出ると、いつも新しい発見がある。

芍薬の朝のしづけさは我しづけさ 水原秋桜子

アクシデントでできた時間。せっかくの神に与えられた時間だ。老い行く自分にじっくりと向き合える時間でもある。足腰が弱っていくなかで、どんな生き方があるかじっくりと考えたい。本棚に眠っている本ともう一度再会する。それは、時代のなかで自分が向き合ってきた世界である。悲しいことに、過去に抱いていた興味は、すでに忘却の彼方、辛うじて数冊の本が棚の隅に眠っている。もう一度その世界を降り起してみたい。

50代の半ばに詩吟を始めた。そのせいか、漢詩や漢文、漢字ついての本が書棚に並んでいる。白川静の『漢字』という本がある。文字の生い立ちや意味が興味深く述べられている。例えば聖。人間性の最も完成された姿を意味するが、漢字を見ると耳と口と人が立つ姿を表している。耳や口は単に、音や家族とコミュニケーションをとるばかりではない。古代にあっては、神の言葉を聞く耳、祝詞を述べる口を意味する。神と話ができる人としての究極の姿を表している。今、一度こうした文字に見える、呪術の世界に触れる時間を持つことは高齢になった今こそ意味がある。
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薔薇

2022年05月29日 | 日記
薔薇が咲いた。世の中にはこよなく薔薇を愛する人がいる。家の周りにこんな風に薔薇を咲かせているお宅は薔薇好きであるに違いない。こんな風な薔薇の花が、牡丹のように花びらを落すのはいかにも忍びない。薔薇好きのの人は花をどうするのか、疑問に思っていたある日、盛りの薔薇をポリバケツに摘み取っていた。乾燥させてポプリにする、自家製ローズウォーター、直接食べるなど様々な利用法がある。このお宅の人は、どんな利用法をしているのか興味深い。西脇順三郎の詩、「体裁いい景色」の一節

洋服屋の様にテーブルの上に座って
口笛を吹くと
ペルシャがダンダンと好きになる
何しろバラに花が沢山あり過ぎるので
窮迫した人はバラの花を駱駝の朝飯にする

季節は夏を先取りしているようだ。梅雨を思わせる雨の翌日は快晴。太平洋側で30℃を超える真夏日の予報だ。こちらは28℃、もはや、半袖を着なければ過ごせない。業務スーパーでは、アイスクリームが飛ぶように売れる。
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老いの歌

2022年05月28日 | 日記
あのアクシデントから10日、ようやく身体の痛みは取れてきた。大腿筋の痛みは、筋肉痛と思っていたが、まだ残っているところを見るとそれに損傷が加わった気がする。血圧もアクシデント前に戻った。体温が少し高いが、まだ炎症が収まり切れないのか。それにしても怪我はないのに、これだけのダメージがあるのは驚きだ。

歌人小高賢の『老いの歌』は身につまされる本である。同じ世代の人々の、日々の暮らしの歌が数多く収録されているが、同感できるものばかりではない。むしろそのような日々が来て欲しくない。その中でやすらぐのは、曽孫を詠む歌だ。宮英子、夫柊二の亡きあとの作に

半年も逢はぬ曽孫林檎ちやん
 走って跳んでおしゃべり四歳

というのがあった。孫がラインで気をつけて、と言ってきたので、お腹の子元気?と聞くと元気、月を越すといつ生まれても大丈夫だから頑張るね、と返信があった。7月には無事、元気なひ孫が生まれることを祈るだけだ。
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カキツバタ

2022年05月26日 | 日記
アヤメの咲く季節になった。花の世界でも、外来種が優勢である。ジャーマンアイリスがその妖艶さを誇っている。ご近所の庭でも、アイリスが今を盛りと咲いている。原産のアヤメやカキツバタが懐かしい。

唐衣きつつ馴れにしつましあれば
 はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 在原業平

ご存知、カキツバタの五文字を詠み込んだ、業平の歌だ。愛知県の八橋。カキツバタの名所だ。業平はここで妻を偲ぶ名歌を詠んだ。同行した一同は、この歌に涙を流したという。素朴にして奥ゆかしい和歌の世界。
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炳燭の明

2022年05月25日 | 日記
本を読みたいが、いつもの枕頭の読書では、打撲した肩が痛くて、長時間は無理だ。椅子に座って、机に本を置いてページを繰る。あたり前の姿勢を、この年になって取り戻している。手元に加藤徹『漢文力』という本がある。偶然、本棚から取り出したものだが、意外に読みごたえがある。この年齢になって、気づかされることも多い。

紀元前500年ころの晋に平公という王がいた。そばにいた盲目の楽師、師曠に問うた。「わしはもう70歳になった。学びたいと思うが、もう日は暮れて遅いような気がする。」師曠が答えた。「日がくれたなら、どうして灯火をともさないのですか」平公「これ、わしをからかうのか。日が暮れたと言ったのは
老いたという意味じゃ」師曠「目くらの臣がからかいを申すなぞ滅相もありません。臣はこう聞いております。若くして学べば周囲を明るくする。壮にしてまなべば、物事の全体を見えるようにする。老にして学を好むのは、炳燭の明のようなもので、太陽の光がなくとも、自分の灯りで見えるようにする。これは暗い星の光と比べてどちがいいでしょうか」平公「もちろん炳燭の明じゃ」

『菜根譚』にはこんな句がある。

日既に暮れて猶烟霞絢爛たり
歳将に晩れんとしてさらに橙橘芳馨たり。
故に末路晩年は
君子更に宜しく精神百倍すべし。

老いてもなお学ぶべきことが多くある。そのことを説く書籍も、近くのブックオフに山積みされている。
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