常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

封人の家 糠塚山

2012年03月31日 | 日記


松尾芭蕉が山中越えをして、仙台藩の堺田の関所を通過し、新庄領の封人の家に
着くのは元禄2年5月15日(旧暦・新暦では1689年7月)のことである。

現在の現地の様子はすでに開けて、芭蕉が通ったころの面影はないが、「奥の
ほそみち」の紀行ではその急峻で山中の荒廃した道は焦眉の場面である。

あるじのいはく「これより出羽の国に、大山を隔てて、道さだかならざれば、
道しるべの人を頼みて越ゆべき」よしを申す。「さらば」と言いて、人を頼み
侍れば、屈強の若もの、脇指をよこたへ、樫の杖を携て、我々が先に立ちて行。
あるじの言うにたがわず、高山森々として一鳥声聞かず。木の下闇、茂りあひ
て夜行が如し。雲端に土ふる心地して、篠の中、踏分ふみわけ、水をわたり、
岩につまづいて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。」

こんな急峻の道をいま体験できるのは、山刀切峠やその近辺のを登ることだ。
私は3月3日に大明神山、3月17日に糠塚山に登った。
特に糠塚山は、封人の家のすぐ近く、笹森集落の神社から行く700mの急峻な
山だ。

芭蕉は木の下闇をくぐってな山刃切峠を越しているが、3月糠塚山深い雪の中
であった。冬靴にカンジキを履いて、深い雪をラッセルしながらの登山だ。
麓の道は比較的になだらかだが、糠塚山は急登だ。一歩一歩雪を踏みながら
登る。

頂上に近づくにつれて、周囲の山や眼下の光景が目に飛び込んでくる。芭蕉が
通ったであろう重なり合った山々がそこに見えている。地形図を見れば、この
急峻な糠塚山の周囲にも道が縦横のつけられている。

そんな道のなかった芭蕉の時代の風景が雪をかぶった山々の向こうに見えてい
た。

蚤虱馬の尿する枕もと

封人の家で芭蕉はこの句を詠んだ。山中のこの家で、芭蕉は風雨に閉じ込めら
て3日間の滞在を余儀なくされた。
ここから山刃切峠を越えて出羽の国へ行くのは、尾花沢の紅花商、鈴木清風に
会うためである。
奥のほそ道の旅の、目的のひとつであった。

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ドナルド・キーン 鬼怒鳴門

2012年03月30日 | 日記

先ごろ、ドナルド・キーン氏が日本国籍を取得し日本人となった。
日本名はキーン・ドナルドで鬼怒鳴門の漢字があてられた。
この人の日本文学、また能や歌舞伎への造詣は深く、日本に対する思い入れ
の大きさは計り知れない。

氏はアーサー・ウェリーの英訳で源氏物語の存在を知り、その素晴らしさに
感動し、原文で源氏を読むために日本に留学し、そして日本語を学んだ。
留学先に選んだのは京都であった。東山を見れば、あれが紫式部の見た東山、
賀茂川を見るとあれが紫式部の見た賀茂川という具合に、紫式部の足跡を自ら
の目でつぶさに見て源氏物語の世界を確認したのである。

氏は1988年10月、「源氏物語と私」と題する講演の中で、紫式部の美意識に
ついて述べている。

「紫式部がほかのどの人よりも美に関して敏感であったことは、争えない事実
でしょう。どんなものを見ても、そのなかにある美を見つけることができまし
た。そして自分の周囲にある美、平安朝の宮廷にある独特の美を見て、それを
書いたわけです。未来の人間の立場からいうと、彼女は永遠の美を創造したと
いえるでしょう。」

3.11の東日本大震災がキーン氏を日本に永住させる大きな要因であったと報じ
られている。これを機会に、源氏物語や松尾芭蕉の世界に触れながら、日本人
のアイデテンティーを再確認して見たい。
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気温上がる

2012年03月29日 | 日記
快晴。春らしい日差しがいっぱいである。
気温も1時現在で13℃を記録した。この春一番だ。
予報では明日はさらに気温が上がるとのこと。

久しぶりに畑を見に行った。
ほうれん草、玉ねぎ、にんにくなど冬に耐えて
葉を太陽に向けていた。雪が消えた畑は、雑草も
なく、土が温かさを蓄えている。

これからの作業は、まず、クド石灰の散布だ。
去年栽培した野菜の後は、土地は酸性をおびる。
それを中和するために石灰を撒く。

モグラが縦横に走った跡がくっきりとある。
石灰の後は、野鼠対策を強化しなければならない。
去年は、ラッキョウやピーナッツ、サツマイモなど
鼠の被害にあった。今年はその轍を踏まない覚悟だ。

畑の隣人に会う。
寒い冬の間には会うこともないので、約3ヶ月ぶり
になる。野菜づくりの先輩として今年も世話にな
らなければならない。
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斉藤慎爾『寂寵伝』

2012年03月28日 | 日記

懐かしい思いにかられながら、この本を読んだ。
瀬戸内晴美の文学の師であり、内縁の夫でもあった小田仁次郎についてである。

小田仁次郎は山形県東置賜軍宮内町の開業医小田金之助とたかの次男に生まれた。
父は医のかたわら俳句を趣味として半酔楼と号した。母たかは宮内アララギ会に
入って短歌の勉強に励んだ。いわば文芸一家に生まれた。
宮内アララギ会いえば黒江太郎であり、その流れに原知一先生も列しておられた。

斉藤慎爾もまた山形の出身である。満州で生まれたのだが、帰国後は父の実家で
ある飛島で育った。海の向こうに鳥海山を望み、夜は酒田の灯台の灯を見ながら育った。
慎爾は少年の頃から俳句に親しみ、早くからその才能を認められた。

日食や父には暗き蟻地獄

雁帰る父の山また母の川

私は昭和34年山形大学の学寮で慎爾さんに出会った。
春休みは殆どの寮生は帰省したが、北海道からきていた私や飛島の慎爾さんは
帰省せずに寮に残っていた。五人部屋の一角を本で仕切って自分の一角とし、
本に埋もれるようにして本読む慎爾さんがいた。

暇をもてあまして遊びにいくと、慎爾さん後輩である私たちに気さく話してくれた。
吉本隆明や埴谷雄高など、文学に縁のない難しい話だったが、ユーモアを交えて面白く
話してくれた。井上光晴や美空ひばりなどの話も出た。

伝記文学と私小説という二つの山脈を書き分けた寂聴について書く斉藤慎爾もまた、
その伝記文学の担い手して歩みを続けているように見える。

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遅い春

2012年03月27日 | 日記
今日、知り合いの方からフキノトウをいただいた。
春の香り、確かに春はきているのだが、寒い。その上、雪が降っている。
天気予報では明日あたりから気温が上がり、春めいてくるようだが、春を待つのは
いつも待ちどおしい気がする。

スーパーストアで種に目がいき、バジルの種を買った。
畑の雪がようやくとけ、土が顔をだしたが種を撒き、苗を育てるのはこれからだ。
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