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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

2025年05月09日 | 
藤の花が咲いた。荒楯にある大木は花の長さも1mを超える長さだ。桜は咲いてから散るまで季節を駆け抜けるように慌ただしい感じがするが、その点藤はじっくり落ちついて優雅だ。風になびく姿も日本人に馴染んでいるようだ。山に観る藤は大木に絡んだ蔓から長く伸びる花房もみごとである。万葉の時代から親しまれている富士だが

恋しけば形見にせむとわが屋戸に植ゑし藤波いま咲きにけり(巻8・1471)

波うつ花房は女性の黒髪を連想させる。山部赤人が詠んだ歌だが、赤人が恋しがっている相手は女性で、今は分かれてしまっている。藤の花の姿はそんな女性の想い出のよすがになっている。

藤の季節は、鉢に植える花や野菜苗を植える時期だ。昨日、トマトからカモミールの苗を買ってきて鉢に植えた。だらんとした茎葉は、鉢のなかで起き上がり花芽を持つ茎のしっかりと分かる。となりの鉢には満開になったジャスミンの花の香りが漂ってくる。タイムとローズマリーの伸びてきた枝を切って水をはった瓶にさす。作業の間、それぞれ特徴にあるハーブの香りが立っている。5月ならでは鉢いじりの楽しい時間が過ぎる。朝どりのウルイや山ウド、ワラビなど五月の戸外は楽しいことでいっぱいだ。
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ライラック

2025年04月26日 | 
散歩コースにリラが咲きはじめた。例年に比べて咲き始めが早い気がする。3月の中旬に寒気が入り、長い冬を感じていたせいかも知れない。この花を見るたび、北の街を思い出す。昭和30年に、札幌を旅した吉井勇が数首の歌を残している。

家ごとに リラの花咲き札幌の 人は楽しく生きてあるらし 吉井勇

北大の教壇に立っていた動物学の内田亨の随想に、「リラの花」がある。内田氏は分のなかでリラではなく、ムラサキハシドイと書いている。理学部の南側に立派なムラサキハシドイの木が5本立っていた。その木が戦時中の食糧難の時代に広場にジャガイモを植え、この木の影が成長に影響するので斬って欲しいという要望があり、学部で斬ったことが語られている。たかがバケツ1,2杯の減収のために、その年に花を見ることができなかった無念さを語っている。

そもそもアメリカから札幌にライラックをもたらしたのは、北星学園の創始者スミス女子であった。いまも北大植物園のにあるイラックは、そこから株分けされたものだ。北の気温や環境が適したこともあったであろう。札幌の街中に広がっていった。6月に北を訪れる寒気は、リラ冷えと呼ばれている。山形ににもこの花を好む人が多いらしく、庭の植木として方々で咲く。花の豪華さと香りでこの花の在りかがすぐにわかる。
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スミレ

2025年04月25日 | 
この春は、ここ数年で一番多く桜をみた。山の仲間と言っ田処の花見は圧巻。どこまでも花、花。その記事もブロブに上げなかった理由は、趣味の会の新聞作り。A4見開きを、自宅で記事を書いて、編集、校正してネット印刷。夜、酒を飲みながら3日ほど時間がいる。作業は実質半日だが、頭のなかでアイデアを練る作業が、日常生活をしながらどうしても3日がいる。気づきに必要な時間なのだ。

ベランダの鉢に植えたスミレが増えて鉢にいっぱいにみごとな花を咲かせた。牧野富太郎の小冊子『植物知識』のスミレの項がいろいろと教えてくれる。日本のスミレには百種ほどあるという。変種したものを加えるとそれ以上、スミレの生育に日本に風土は適しているらしい。万葉の時代から親しまれているが、園芸として栽培されていない。野の花として見ることの方が多いようだ。

春の野にすみれ摘みに来し我ぞ野をなつかしみ一夜宿にける 

スミレは宿根草で、冬に葉が枯れても、春になると葉が出て濃紫色の花を咲かせる。ツボスミレは花の形が壺に似ているという説は嘘で、お壺すなわち庭スミレだとしている。この坪スミレの歌も万葉集にあり記載されている。

山ぶきの咲きたる野辺のつぼすみれこの春の雨にさかりなりけり
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春の花あれこれ

2025年04月09日 | 
春に花に出会うことは、人生に深い意義があるように感ずる。寒い、厳しい冬を乗り越えて春に出会う一輪の花。大げさに言えば、生きる力を与えてくれるのが花だ。フランス文学者で『花を旅する』の著者、栗田勇が花の思い出について語っている。
「長い間本を読んだりものを考えていても、知識は増えていきますが、その割になにか胸の底にすとんと落ちる、いいかえるとこれが人生の感動の瞬間だと自覚できるようなことは、なかなかないものです。さまざまな人間関係、若いときは友人や恋人がいますが、そういうものから離れたときに、自分が自分に返れる瞬間、そのきっかけになったのは、どうも花との出会いではなかったのか。逆にいうと、花との出逢いで、人との結びつきの想い出も生まれたという気がするのです」

春を待ち、花を愛でたのは俳人蕪村だ。友人の死を悼んで詠んだ詩「北寿老仙をいたむ」の書き出し。

君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき

蕪村関連の書には花の句があふれている。散歩道で花を見ながら蕪村の句をひもとくもまた一興だ。

花に暮て我家遠き野道かな
花ちりてもとの山家となりにけり
行春や眼に会ぬめがね失ひぬ
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黄色の花

2025年03月28日 | 
春の花と言えばすぐに桜や梅を思い浮かべるが、黄色の花が意外に多いことに気づく。雪が消えてまだ2週間ほどだが、ミツマタ、マンサク、サンシュユ、スイセン、オウバイなどを矢継ぎ早に見た。これからフクジュソウ、タンポポ、菜の花、レンギョウ、キンポウゲ、チューリップなど思い出深い花々が次々に咲いていく。

山茱萸にけぶるや雨も黄となんぬ 水原秋櫻子

三月も終わりに近づいてきた。新年になってから、あっという間の90日だ。塚本邦雄の『今朝ひらく言葉』に次のような詩の一句がある。「間雲潭影日に悠悠、物換り星移り幾秋をか度りし。」意味するところは、大自然の運行はゆったりととして変わらないのに対し、人の時間は目まぐるしく過ぎる、ということだ。大自然が時に嵐となり、大きな山火事が世界中で発生している。この時代唐詩の時代に比べて自然にも大きな変化が起きつつある。人事や社会はさらに激しく動いている。花を愛でながら、心静かな時間が持てるのは、人生の至福ということができる。
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