常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

寒の内

2024年01月15日 | 詩吟
新年の気分はなかったが、月日は飛ぶように過ぎていく。それにしても、こんなに雪の少ない寒の内は記憶にない。来週は大寒だというのに、平地には雪が見えない。蔵王のスキー場も雪が少なく、恒例のジャンプ大会のためにシャンツェの雪が運ばれている。道路に雪がないだけ車の運転も楽だが、この季節に見る青空は異常気象のシンボルのように見える。太平洋岸では、この季節普通に見える青空だが、日本海側の小雪はコメの不作の予兆でもあるのだ。

昨日、詩吟の会の初吟会が開かれた。久しぶりに会う吟友の吟を小1時間聞いた。高齢化で会員たちの今年の抱負を聞いて回った。期せずして、「健康第一」という声が方々で聞こえた。そのなかで、「詩吟をもっと上達したい。」「美しい日本語を極めたい。」「仲間を増やしたい。」どのテーブルからの切実な声が聞えた。漢詩や和歌に親しむ時間は、歴史のなかに埋められようとしている。戦後の敗戦を経験した人々は、本当の言葉に飢えていたような気がする。漢詩の難しい表現への回帰は、一億総玉砕などの虚しい言葉への反発であった。紀貫之の春の歌が心に沁みた。

袖ひちてむすびし水の氷れるを
 春立つ今日の風や解くらむ
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白楽天

2023年02月08日 | 詩吟
趣味の詩吟で異変があった。病気を抱えていた会長が、昨年の暮に急逝し、教室の先生が会長の後を継いだ。かつては大所帯だった山形岳風会も、500名ほど小さな会になった。それでも、県内では大きい会にランクされる。この度、教室の先生で会長を務めることで、会の現状など様々な情報が、詩吟の練習の合間にきくことができる。岳風会の公開講座というのがある。希望する会員に吟じ方や詩吟についての知識を伝える大事な講座だ。その講師に教室の先生が選ばれた。

先生が担当する吟題は、白楽天の「菊花」である。白楽天は中唐の詩人で、西暦772年~846年、74年の生涯であった。地方官僚の父に生まれた白楽天は、飛び抜けたエリート層に属さず、父が死んでからは、貧しい家庭と言っていい。白楽天が頭角を現すのは、先ず詩人である。16歳で五言律詩を詩壇の会合で発表し、詩壇から高い評価を受けた。父の死後5年、宣洲で郷士に合格すると、翌年進士に及第。この時、白楽天29歳。この時代、科挙の制度で、進士に及第するのがいかに難しいことであったか。「三十老明教、五十少進士」とも言われ、五十歳で及第しても若い方であったのが実情である。

白楽天はエリートの家系ではないため、官途は平坦なものではなかった。そして左拾遺という役に就く。世情を観察し、天子に進言する役回りだ。この時期に作った「諷諭詩」は天子に進言した世情の矛盾を、世間にも広めようしたのだろうか。「売炭翁」はこの系列の代表作だ。官のなかでは、このような正義感を憎むものも少なからずいた。左遷という運命が、白楽天を待ち構えていたのはこんな事情があった。「菊花」を詠んだのは44歳の時。江洲に左遷された時の詩である。

一夜新霜瓦について軽し
芭蕉は新に折れて敗荷は傾く
寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
金粟の花は開いて暁更に清し

この地は、かの陶淵明の故郷である。白楽天が陶淵明の生き方に傾倒し、尊敬していた。その地に流されたことを喜び、そこで陶淵明の旧宅を訪ね、菊の花を見てこの詩を詠んだ。あの「菊をとる東籬の下、悠然として南山を見る」の詩句が思い出される。白楽天には「陶淵明に習う詩16首」がある。この詩編を読むと、どれほど陶淵明に傾倒していたか、致仕ということがどれほど楽天の望むところであったか。自ずから読み取ることができる。


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仁徳天皇

2022年03月13日 | 詩吟
難波津に咲くや木の花冬ごもり
 今は春べと咲くや木の花 王仁

詩吟教本の和歌篇に見える。王仁はワニと呼び、応神天皇のとき百済から渡来し、「千字文」「論語」などをもたらしたと伝えられる。仁徳天皇が大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)と呼ばれた親王の時代に、皇太子の位についていた莵道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)一番末の弟があった。この弟は聡明で、王仁に師事し、論語などの渡来思想を修めていた。この兄弟の皇位継承をめぐる逸話がある。兄が皇位を継ぐべきと考える莵道稚郎子に対して、天皇の指名による皇太子が継ぐべきと主張する兄の大鷦鷯尊。二人の譲り合いは3年の月日の長きに及んでいる。

豈久しく生きて、天下を煩わさむや。

論語の長子相続を深く考えた莵道稚郎子は、この言葉を残し、兄を皇位につけるために自死の道を選んだ。この悲劇によって誕生した仁徳天皇は、慈愛に溢れ民の暮らしに寄り添う政治を行った。仁徳天皇の御製とされる有名な歌がある。

たかき屋にのぼりてみればけぶりたつ
  民のかまどはにぎはひにけり 仁徳天皇
 
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GO TO古窯

2020年11月10日 | 詩吟
昨日、恒例の詩吟仲間の恒例の録音会。会場は上山の古窯に決まっている。コロナ禍で、初めてgo toキャンペーンを利用した。この状況のもとで、参加者もいつものメンバーで欠席する人も多かった。メンバーの得意の吟を録音した後、宴会が始まった。古窯には、全国からの旅行者が来館するので、コロナ対策もきめ細かい。いつもなら、料理が一品づつテーブルに運ばれるが、重箱に詰められたお節料理になっていた。メインデッシュは山形牛のステーキ、松茸の土瓶蒸し、そして刺身の盛り合わせ。スタッフとの接触を減らしたなかで、贅をこらした構成になっていた。

この会には年に一度だけ顔を合わせる人のいる。昨年なら、席を廻り、酒を注ぎ合って久闊を叙す。笑い声や大きな声で宴席が盛り上がるのだが、隣同士で小声で話す程度で、名物のカラオケもない。いきおい、注目は細かな心遣いをした料理に向けられる。松茸は鮭川村で採れたもの、ステーキ用には山形産の牛肉が使われている。春雨庵に流された沢庵禅師のタクアンと地元のおみ漬けが懐かしい味だ。松茸の土瓶蒸しなど、一、二度食べた筈だが、ほとんど生まれて初めて食べる感覚だ。古窯の宴会宿泊料は17000円ほどだ。go toを利用して35%引き、県の補助5000円、クーポンが2000円。利用料金は実質5000円ほどであった。このキャンペーンを利用する人は多い。今日の朝食会場も、平日であるのに、テーブルは6割程度が埋まっていた。

詩吟の会は、若い世代の入会者が少なく、どこも縮小の一途だ。世の中の流れに抗してみても、この世界にブームが来る予兆はない。細々と継続して、珍しい邦楽としての存在価値が上がった時、それを伝えていく人材を残しておく、その辺りが目標とすべきところではないか。子どもの頃、父親が浪花節を一人で口ずさむのを聞いたことがある。ラジオから流れてくる浪花節を聞くのを楽しみにしていたのだ。物心がつくようになって、浪花節の面白さが分かったような気になったこともある。しかし、今ではこの芸能に光りが当たることはない。詩吟もこの浪花節のように、日本人から忘れられる存在になっていくのだろうか。
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漱石の漢詩

2019年05月29日 | 詩吟

詩吟の教室は毎週火曜日である。先週に続いて、教室で詩吟を教わっている内に雨が降ってきた。畑で待ち望んでいる雨が、この日に降るのはいいことである。教わった吟題は夏目漱石の「春日偶成」である。明治45年の作品である。この題名で、漱石詩集には5言絶句10首が収められている。教室でのものは、其の一である。

道う莫れ風塵に老いゆと

軒に當りて野趣新たなり

竹深くして鶯乱れ囀り

清昼臥して春を聴く

年譜を見ると、寺田寅彦から頼まれた漢詩、湯浅廉孫から絵を頼まれていたが、湯浅にも漢詩を送っているから、5月24日に作った漢詩は10首の内のものを送ったらしい。吉川幸次郎氏の考察によれば、この10首が一日できたものとは思われない、とされる。風塵はうき世の塵。當軒はベランダに出てみれば。野趣は自然の素朴で健康なおもむき。聴春は吉川博士は、従前の詩人の用例はないと解説している。

この年漱石は46歳、老いという言葉がふさわしい年代ではないが、明治43年の8月には、宿泊中の修善寺で胃から大吐血する大病となり生死の境をさまよった。こんな体験が、この言葉を使わせたのかも知れない。この大病のあたりから、漱石は漢詩を多く作るようになっている。若い時代に親しんだ俳句を離れ、小説の執筆を終えると、半日ゆっくりと漢詩の推敲に時間をかける日が続いた。

詩意に難しいところはない。詩の流れは、漱石の心境をよく映し出しているように感じられる。外は雨だが、初夏のよそおいで玄関先に、ニゲラの可憐な花が咲いていた。

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