佐藤春夫に「犬吠埼旅情のうた」がある。島崎藤村に、「千曲川旅情のうた」があり、これら大正の詩を読むと、その時代の詩には旅情のなかで、人間の存在へのいつくしみのような感情が詠みこまれている。
ここに来て
をみなにならひ
名も知らぬ草花をつむ。
みづからの影踏むわれは
仰がねば
燈台の高きを知らず。
波のうねうね
ふる里のそれには如かず。
ただ思ふ
荒磯に生ひて松のいろ
錆びて黝きを。
わがこころ
錆びて黝きを
犬吠埼の波の打ち寄せる海辺に来て見出したものは、荒磯に向かって立つ松の葉の黒さである。その色は、みづからの心の色を映している。若き日の青年の憂鬱の心の色である。
来週、新潟の角田岬を訪ねる。そこで、早春の花を見、日本海の海を目にする。詩人の心をこの旅で、思いあてる術もないが、自らの老いを確認することはできる。私にとっての山旅は、人生の旅路を彩るひとこまである。そこで見る花、景色。仲間と語る言葉、どれもがいとおしいものとなるであろう。