常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

赤毛のアン

2013年09月29日 | 読書


松本侑子訳『赤毛のアン』が面白い。孤児院からグリーン・ゲイブルズの家に貰われてくる赤毛で雀斑だらけのおしゃべりな少女アンの物語だ。アンにとって、このカナダのプリンスエドワード島の自然やカスパート家での生活は、どれもが初めて触れるもの、見るものばかりだ。アンは生まれたばかりの小鳥のように、日々新しい体験を積み重ねていく。失敗を重ねながらも、小さな身体のなかから湧き出てくるアンの言葉は、驚きと感動に満ちあふれている。まるで生まれたての人間の清らかな魂に触れているような気がする。

隣の屋敷の住む同じ年頃の少女ダイアナとの友情は、アンとって何ものにも代えがたい宝物だ。母親がわりになったマリラは、ダイアナを招いて二人だけのお茶会をさせる。お茶会で二人は、大人をまねた特別の言葉づかいで会話する。「お母様はご機嫌いかが?」とアンが尋ねると、「おかげさまでとても元気ですわ。」とダイアナが答える。ちょっと日本のママゴト遊びの雰囲気だが、お茶や飲み物は本物で接待する。

アンがマリラの造った木苺水をダイアナにのませるのだが、木苺水と書いてある瓶にはスグリの果実酒が入っていた。マリラがうっかり入れ替えていたことを教えなかったのである。あまりにおいしかったので、ダイアナはそれを立て続けに3杯も飲んでしまい、酔って気持ちが悪くなって家に帰る。ダイアナの母は、アンがイタズラで果実酒を飲ませたと思い、二人が一緒に遊ぶのを禁止してしまう。マリラとアンは謝りにダイアナの家に行くが、母は頑固でアンを許そうとしない。

こんな事件もアンの誠意と努力で解決していくのだが、その展開はページを開くのが待ち遠しいほどに読む者を楽しませてくれる。この本も本棚の奥で10年も眠ったままでいたが、読んでみると重厚でしかも面白い。これを書いたモンゴメリが、イギリス文学に造形が深く、信仰心も篤いので、随所の聖書の言葉が鏤められ、シェクスピアのどの古典からの引用が、知的好奇心を刺激する。それも、翻訳あたった松本侑子の綿密な調査による裏づけがあるからだ。




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塞翁が馬

2013年09月29日 | 日記


60年以上も前のことだが、北海道の実家では農耕馬を飼っていた。押し切りで藁を切って餌にして与えるのは、子供時代の自分の役割りであった。動物は餌を与えるとなつくものだ。馬も例外ではない。畑の作業を手伝っているとき、なにかの拍子に馬の前に転んだことがある。馬は歩いていたので急には止まれず足で私の足を踏んだ。蹄鉄を履いた足である。子供の足を踏みつけるとひどい怪我をすることは目に見えている。馬は足に体重を掛けないようにそっと私の足に乗った。幸い柔らかい畑の土の上であった。足が土にもぐってことなきを得た。馬が危険を察知して、やさしく動いたのだと今も思っている。

冷やし馬目がほのぼのと人を見る 加藤 楸邨

慣用ことわざに「人間万事塞翁が馬」というのがある。塞翁とは塞の近くに住んでいた翁のことである。この翁の馬が塞を越えて、異国へ逃げてしまった。紀元前150年ごろ、中国の歴史書にある話だ。近所の人が翁に慰めの言葉を述べた。するとこの翁、占いを得意としていて、「なあに心配することはない。これは福が来る前兆だ」と言って平然としていた。数ヶ月後、逃げた馬が異民族の名馬を従えて翁のもとに戻ってきた。

近所の人々は、今度はお祝いを述べにやってきた。ところが、今度は翁が意気消沈している。「これは災いが起る前兆じゃよ。」翁の言葉を裏づけるように、息子が名馬に有頂天になった乗り回した。その挙句に落馬して骨折し、半身不随になってしまった。すると翁は、「これでいいんだ。やっと福が来る。」と人々に話した。一年経って、異民族が攻め込んで来た。この村の若者は戦争に駆り出され、10人中9人までが死んだ。翁の息子は、身障者で戦争に行かず無事であった。

滝沢馬琴もこの故事に因んで、『南総里見八犬伝』に書いた。「古の人にいわずや、禍福は糾える縄の如し、人間万事往くとして塞翁が馬ならぬはなし」今不幸のどん底にあるように見えても、後になって見れば、その人の幸福のもとになっているという例は至るところにある。




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天高く馬肥ゆ

2013年09月28日 | 日記


大陸からの高気圧に覆われて、秋の空は高く、青く澄み渡っている。雲が出ても1万mもの高いところで横に流れる絹雲が主体で、砂ぼこりや黄砂の飛来も少なくなるので、なおさら空は高く見える。稲は実り、豆や南瓜の収穫も始まっている。涼しさは食欲も増し、馬も肥える。この成句は、日本では食欲の秋の代名詞のように使われている。

中国の史書『漢書』の「匈奴伝」に、「匈奴秋に至る。馬肥え弓勁し」と書かれている。匈奴とは、モンゴル、キリギス草原を根拠にし、馬を操って秦帝国に侵入を図る騎馬軍団である。さしもの始皇帝も、匈奴の侵入を防ぐため腹心の将軍を派遣し、加えて万里の長城を築かねばならなかった。中国ではこの成句は、人々に匈奴の侵入に備えよ、との警告である。

農耕を主体とした帝国を護るため、どれだけ多くの戦士が、長城を防衛するために派遣されたことであろうか。漢詩をひもとくと、この長征を詠んだ詩がなんと多いことか。それだけ中国の為政者の、侵略者に対する警戒心は歴史に長く横たわっている。同時に、辺地に派遣された兵士の家族の嘆きはまた大きなものがあった。

万里久しく征戦し
三軍ことごとく衰老す

李白は匈奴のとの戦いを、生々しく漢詩に詠みこんでいる。万里の遠きに渡って戦いを繰り返し、わが大軍も衰えてしまった。匈奴は人を殺すこと田を耕すこのように行い、白骨は砂漠に散乱している。廃馬は悲しみ、カラスやトンビは人のはらわたを引きづり出して、樹の枝に掛けている。歴史とは、人が生き残るための悲惨な物語である。

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牛蒡

2013年09月27日 | 農作業


牛蒡の葉が大きくなった。丈は1mを超えているようだ。収穫は10月の中旬ころと考えているが、この作業は大変である。「ごんぼ掘り」という青森の方言があるが、酔ってくだをまいたり、ぐずぐずと不平を言って譲らない、つまり扱いづらいことを言う。それほどに牛蒡掘りは大変である。牛蒡の根の周りの土を慎重に掘り進め、根が伸びている深さを確認してから一気に引き抜く。それでも途中で折れて、先が地中に残ることもしばしばだ。

老の息うちしづめつつ牛蒡引く 後藤 夜半

最近、牛蒡の栄養価が見直されている。食物繊維のあることは、早くから知られているが、ポリフェノールの一種であるクロロゲン酸のほか、ビタミンやマグネシューム、葉酸も豊富に含まれている。この栄養素を損なわないようにするため、皮を剥かない、水にさらさない、新鮮なうちにすぐに調理することが大切である。自家製の牛蒡茶を作る人も増えている。

牛蒡はヨーロッパで若い葉をサラダで食べるが、この根を食べるのは日本と韓国ぐらいしかない。韓国や中国の一部でも食べられるが、これは戦時日本が支配していた地域であるから日本人が広めたものであろう。戦時中、捕虜になった欧米人に牛蒡を食べさせたところ、日本は木の根を捕虜に食べさせると、抗議されたという話も残っている。

辰巳浜子の『料理歳時記』に牛蒡サラダの酒のつまみが紹介されている。「細いごぼうを選んで紙のごとく薄く細く笹がきにしましょう。水にさらして(二回だけ、さらし過ぎるとごぼうの香がぬけます)よく水を切って、つんもり小鉢に盛り、花かつお(手かき、袋入りの花かつおでは駄目)を盛り合せ、食べるときちょっと醤油をかけます。日本酒、ビール、洋酒どちらにも万能です。

当時は牛蒡を水にさらすのは、普通に行われていたが、辰巳浜子は香りを損なわないよう、さらし過ぎないように注意をしている。料理のプロはまだ栄養素の分析がない時代から、そのおいしさでどうすれば栄養素が損なわれるかを見分けていた。

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太公望

2013年09月26日 | 


釣が好きな詩吟の先生から豆アジをいただいた。夜釣ったものを氷で冷やして、朝届けてくれたので新鮮そのものである。目は澄んで、硬直が解けていない。早速、から揚げにしてご馳走になる。美味、このうえなし。

釣り好きを太公望と呼ぶが、これには中国の古い故事が関係している。紀元前11世紀ごろというから、今から3000年以上も前の話でほとんど伝説の範囲に属している。この時代の中国は殷で、そこを治めるのは紂王であった。だが、敵が献上した美女妲己の色香に溺れ、酒池肉林の放蕩の限りを尽くして滅ぼされる。まんまと敵の術中にはまったのである。殷を滅ぼしたのは周の武王である。

武王の父は西伯といい、後に文王になるが、渭水の畔で釣りをしている呂尚に会う。呂尚はこの時職に就くこともなく、本ばかり読んで、それに飽きると釣りに出かけるという毎日であった。夫の体たらくに愛想をつかした妻から去られ、一人暮らしであった。西伯とどんな話をしたのか。おそらく呂尚は殷の腐敗とそれを取り巻く諸国についての考えを述べたものと思われる。

呂尚の話に感銘を受けた西伯は、「貴公こそ、父が望む人物だ。貴公を太公望と呼ぶことにしよう。」こうして呂尚は、周の軍事顧問ないし補佐役に抜擢された。その子武王が、殷の
紂王を討つときもその知恵袋として活躍した。別れた妻が、呂尚の出世を見て復縁を申し入れてきた。呂尚は盆に水を入れ、それを地面に撒いて言った。「水を掬って盆に返してみるがよい」元妻は泣く泣く水を掬ったが、もとより盆に返すことはできない。「覆水盆に帰らず」とは、この故事に基づいている。
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