常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

三月尽

2015年03月30日 | 日記


新年を迎えてから3ヶ月があっという間に過ぎた。市内に残っていた雪はいつの間にか消えてしまった。あらためて、太陽のもつエネルギーの大きさを思い知らされる。明日の気温予想は20℃、桜の蕾も脹らんできたようだ。俳句の季語に三月尽というのがあるが、この月が終わるのを惜しむのはやや不自然な感じがする。陽春が来て、桜の季節が近づいているのは、むしろ待ち遠しい感じである。

沼に田に人居る四月来りけり 岡部 弾丸

光禅寺の庭に行ってみた。春の光を浴びて、梅の花や早春の花々が咲き始めていた。義母の家は空き家になってみすぼらしい。誰もいない家の庭に、ツバキの花が咲いていた。「年々歳々花相似たり、年々歳々人同じからず」というのは、漢詩の詩語であるが、この春の光禅寺の庭はその詩語とおりの光景である。

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紅梅

2015年03月29日 | 日記


野に出て、地面を見ると、イヌフグリや福寿草の花、スイセンが頭を出して伸び始めているが、雑木林はまだまだ新芽を出すには早い。冬枯れの景色があたりを圧するが、梅の花が咲くといよいよ春が来たという感を深くする。えもいわれぬ香りがたちこめ、百花のさきがけの花はやはり気品がある。

咲く梅の遠からねども畦絶えぬ 水原秋桜子

妻を誘って悠創の丘に、春の山菜を探す。カミソリ葉、山ニンジン、蕗の薹など春の香りを楽しむ山菜を少しだけ頂いてくる。花ワサビは、花茎がまだ伸びていまいので収穫しない。冬支度をやめて丘に登っても、寒さは感じない。
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豊立山

2015年03月28日 | 登山


今週の山行は尾花沢の豊立山である。山登りをする人たちに殆ど知られない里山だ。尾花沢から赤倉へ行く途中に矢越という集落があるが、豊立山はその村落に恵みをもたらす山である。標高376m、矢越に住む人の話ではこの山に登りに来る人は殆どいないらしい。我が山友会でも、この山をはっきりと認識していたわけではない。翁山や二つ森へ登った帰路、目だった山が見えるが、カーナビに出てくる豊立山をその山と見間違っていたような気がする。



矢越の集落から豊立山に向かう林道へ向かうとすぐに神社がある。集落の安泰を司る神社である。雪に埋もれて、この神社が祀る神がどのような名の神であるか知ることができない。山から流れて来る水を利用して、この集落は田を作っている。神は高い山から、集落のある神社の神木を憑り代として降り、集落を見守る。水が村を潤すように、山の神に祈るのは古くからの村のしきたりであっただろう。同時に、この村で亡くなった人々は、祖霊としてこの里山のいただきに止まって村を見守っている。



集落の高台に神社があるように、林道に向かう集落の要には、そこを守る老人がいる。悪意を持って里山へ足を踏み入れようとする不届き者を見張り、里山の魅力にひきつけられて来る人々には、神のような善意を施してくれる老人である。先週の戸倉山でも逢うことができたが、今日の豊立山でも、また好々爺に会うことができた。行く道を尋ねると、「この林道から左に登るんだけど、何のためにいくのかね。」山の神には、雪だけしかない山へ行く理由が解せないらしい。お爺さんの住む家の庭の一部だけ雪が解け、福寿草が可憐は花を開いていた。もう雌しべに小さな蜂が蜜を求めて来ていた。



頂上まで1時間30分、好天、無風、眺望といずれも快適な里山歩きであった。雪の状況は一部ぬかったが、さほどでもなく順調な雪上歩きであった。尾根道の日当たりのよいところではマンサクの花に行きあった。ナラとブナの雑木林が尾根から頂上に続く。尾根道から、翁山、二つ森、吹越山が雪を被って、青空に屹立している。この時期でしか見られない景観である。本日の参加者5名、内女性3名。登りながらの、語らいも楽しい。

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広瀬中佐

2015年03月27日 | 日記


軍神と呼ばれた広瀬中佐、こと広瀬武夫は明治37年3月27日、日露戦争旅順港閉鎖作戦の最中に戦死した。広瀬中佐が指揮する福井丸は敵の魚雷を受け沈没しようとしたが、部下の杉野軍曹が船を自爆させる爆薬の点火のため船倉に行き、ボートへの撤退に遅れた。部下思いの広瀬中佐は、自らの危険を顧みず、軍曹を探して爆発が起こるかも知れない船倉を3度にわたって探索した。

「杉野、杉野っ」と叫んでも、返答はなく、福井丸の沈没は目前に迫ってくる。止むを得ずにボートに飛び降りたが、そこへ砲弾の嵐を浴び、広瀬中佐あえなく戦死した。剛毅、果断、勇武と軍人の資質を備えた中佐は、部下に接するに子の如く、部下は中佐を親にように慕ったと伝えられる。この戦死のシーンは、文部省の唱歌となって、小学校の子どもたちに唄われた。

1 轟く砲音 飛び来る弾丸。
 荒波洗う デッキの上に、
 闇を貫く 中佐の叫び。
 「杉野や何処、杉野は居ずや」

2 船内隈なく 尋ぬる三度。
 呼べど答えず さがせど見えず
 船は次第に 波間に沈み、
 敵弾いよいよ あたりに繁し

広瀬中佐は清廉潔白であった。酒を飲まず、煙草を吸わず、あらゆる嗜好に淡白であった。万一のことに思いをはせて、妻帯をすることもなかった。享年36歳、その死を惜しまれる軍人であった。
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池大雅

2015年03月26日 | 


夏目漱石の句に

玉瀾と大雅と語る梅の花 漱石

池大雅は天衣無縫な絵の天才であった。無名時代に扇に絵を描いて、祇園の境内に莚を敷いて売っていた。諸国の大勢の人が参拝に来る神社の境内であったが、大雅の扇を買うものはいなかった。参拝者たちから、「乞食絵描き」と陰口をたたかれながらも頓着せず、境内の店に通いつめた。大雅の露店の先に、お百合茶屋という茶店があった。店主のお百合は、30歳ほどの後家で、娘を連れて店番をしていた。娘の名は町と言った。

同じ境内で露店を出した大雅をお百合が目に留めた。売っている扇の絵を見ると、凡手の絵描きでないことをすぐに見抜いた。大雅に同情して、お百合は娘に茶を運ばせ、売っている扇を買い求めたりした。話をしているうちに、大雅の人柄や絵の技量を見るにつけ、この人は世に出るに違いないと確信した。そこで、お百合は大雅に、娘の婿になってくれるように頼んだ。まだ町は12歳の子どもであった。そこで、諸国を歩いて絵の腕を上げてから婿になることを約束した。

大雅は熊野に詣で、和歌山の祇園南海の教えを乞うた。南海は大雅の画才を大いに認め、清人の絵師の南宋画を与え、この絵を研究して、南宋の真髄を極めるように話した。大雅の技量は長足の進歩を遂げ、その名声が国中に広まっていった。嫁に迎えた町も絵に興味を持ち、大雅から絵を学び、玉瀾と号した。年は離れていたが、玉瀾は夫を尊敬していたので、実に仲のよい夫婦であった。二人にこんな微笑ましいエピソードがある。

大雅は絵の揮毫を頼まれて大阪へ向かった。慌て者の大雅にはよくあることであった。気づいた玉瀾が絵筆を持って夫を追いかけ、やっとの思いで追いつき絵筆を差し出すと、「これはこれは、どちらのお方か存じませんが、よう拾ってくださいました」と忘れたことを認めようとしない。玉瀾も余計な話はせずに「どういたしまして」と言って戻って行った。漱石の句には、こんなユーモラスな二人の会話が隠されているのであろう。迎えたばかりの新妻を玉瀾と重ね合わせて詠んだかもしれない。

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