周りの年配の人が、一人、二人と欠けていく。自分より年の多い人が減っていくと、自分の老いに目をむけざるをえなくなる。最近、一寝入りしてから、目を覚ますことがよくある。そんな時のために、枕元にはいつも4、5冊の文庫本を置いておく。興のむくままにページを繰っていると、また眠りの時間がやってくる。最近そんな風にして読んだのが、太宰治の『右大臣実朝』だ。ある晩は、4、5ページで眠りに落ち、ある晩は興がのってきて、朝方まで。こんな読み方でも、太宰の実朝は、面白く読むことができた。それだけ、太宰のこの御曹司の性格描写がすぐれているからであろう。
この深夜の時間に、最近、スマホでクラシックや落語も聴くようになったが、ラジルラジルの深夜便というのを聴いた。これがまた実に面白い。名は忘れてしまったが、音楽家が舞台監督の蜷川幸雄に電車のなかで偶然に逢った。それから蜷川の舞台を見にいくようになった。その間、アルバイトしながら、作曲の勉強に打ち込んだ。そして数年後、運命的にまた電車で蜷川監督に逢った。監督は一度話しただけで、名前を憶えていて、「〇〇君、どうしている」。作曲の勉強をし、もう監督の舞台の音楽に使えるレベルであることを臆面もなく告げた。請われて、テープを送った。それから何事もなく1年が過ぎ、そして監督から一緒に仕事をしたい旨の電話が来た。
この音楽家は東京で生きて行く方法のようなものを語っていた。自分の子どもたちも、この人のように生きて行ければと思いながら、眠りに落ちた。中原中也の詩に「在りし日の歌」というのがある。
老いたるものをして静謐の裡にあらしめよ
静かさの中にあれば心ゆくまで悔いることができる。
悔いれば心が休まる。
父母兄弟も友も忘れて、きりもなく泣いてみたい。
夕暮れの空にはためく小さな旗のように泣こう。
この詩のフレーズ、砂漠が水を吸うように、心にしみ込んで行く。しかし、同時に、若い年代の人たちと心を通わせた会話をしたい。静かな夜の時間に、朝まで語り明かしたい。そんな願望が、心の裡に生れる。