常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

二月尽

2017年02月28日 | 日記


空に雲一つない日本晴れ。朝方は-5℃と放射冷却で冷え込んだが、日差しとともに気温が上がり、空の表情ににも春の気配が強くなっていることが感じられる。今日で2月も終わり、いよいよ春の動きが始まる。それにしても、新年から今日まで、日が過ぎるのが早い。会う人ごとに交す言葉は、「日が経つのが早いね。年をとるのが早くて」。

剃刀に充電二月終りけり 秋元不死男

そろそろ野菜づくりの季節が始まる。テレビの番組も気になるのは、田舎暮らしで畑づくりをしている番組である。先日、カラフルな野菜で「スイスチャード」が紹介されていた。畑づくりの魅力のひとつは、知らない珍しい野菜を育てることがある。畑でカラフルで大きな葉を広げている。よく聞けば、不断草(ナツナ)の洋種である。育て方も、現在のナツナと同様であるらしい。畑には雪解けを待つキャベツやアシタバ、五月菜があるが、今年はスイスチャードを仲間に加えたい。
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雪崩

2017年02月27日 | 日記


日差しが出て、気温も上がってきた。春めくという言葉が今日の陽気にふさわしい。先日の、山行が今日だったらと思う。ただ気温が上昇すると、雪山で注意が必要なのは雪崩である。雪崩には、新しく積もった雪が、古い雪の上を滑り落ちる表層雪崩と、いよいよ気温が上がって積雪全体が地はだの上を滑り落ちる全層雪崩がある。表層雪崩は落下速度が速く、かって黒部渓谷で起こった泡雪崩は、爆風のような風圧をともない、ブナの大木はもとより、建設中の発電所をから鉄橋を吹き飛ばす猛威をふるった。

一方の全層雪崩、底雪崩も密度の高い固まった雪が落下してくるのでその衝撃は大きい。山中を走る国道や線路などのはシェルターなどの対策がかなりとられている。今年のような2月の後半になってから大雪が降っているので、この表層雪崩には特に注意が必要だ。雪の山に入るというと、決まって言われるのは、「雪崩は大丈夫?」という言葉だ。やはり、肝心な安全対策は、雪崩の恐れのある山には入山しない、というのが基本である。

遠雪崩ひとりの旅寝安からず 藤田 湘子
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二ッ森 名残りの雪山

2017年02月25日 | 登山


今シーズン、冬らしい雪山はもう最後になるかも知れない。3月になって、品倉山の計画があるがその時期はもう春の雪山になっているだろう。朝、自宅を出発したときは、青空が見え、風もない。快適な山行ができるのではないかと期待が膨らむ。しかし、13号線を北へ進むにつれて、雪が舞った。尾花沢の母袋の集落に入るごろには、本降りの雪となっていた。牛舎に入る道は、朝の除雪のあとに、すでに新雪にが積もり始めている。晴れマークの予報を信じて、カンジキを履き牧場を覆う雪原を二ッ森の登山口へ向かった。新雪は20cm前後だが、その下は固い雪で靴はさほど沈まない。



二ッ森は左に北峰、右に南峰のラクダの瘤を想像させる双耳峰だが、標高は695mに過ぎない。雪中の歩行は、牛舎の裏から入る広い牧場の方が長い道のりである。期待していた晴れ間は一向に見えず、雪のなかに雪を被った木々と広い牧場も奥までの見通しはなく、目指す二ッ森はその影すら見えない。同行した仲間から、こんな雪降りにいくの、という声が上がる。気温0℃、風がほとんどない、という条件に助けられて登り続ける。本日の参加者9名、内女性4名。



尾根を進み鞍部に至るには、谷に登山道があるが、谷の道を避けてトラバース気味に鞍部を目指す。新雪の下の堅雪は、次第にアイスバーンの状態になり、ステップが切りづらい。足の疲れを感じながらも、木々の霧氷に目を奪われる。霧氷の上になを降り続く雪がついて、一層その美しさを増している。

霧氷咲く木花開耶姫祀り 藤井 艸眉子

やはりこんな圧倒的な霧氷の景色を見られるのも、今年は最後になるような気がする。その証として、下山時には気温が上がり、もうその神々しさは失せていたからだ。今年最後と、訂正を要する。今年初めて見たのも今日なのだから。

鞍部に着いて風が強まってきた。ここは風の通り道でもあるのだが、雪が吹雪のような状態になっている。「今日はここまでで退却してもいいのでは」という声が話し合いが持たれた。会長から、「ここから頂上までは15分」という声に励まされて継続することになる。下のアイスバーンの対策としてアイゼンを履く。さすがに寒風のなかでアイゼンを着けるのは、経験者でも時間がかかった。安全登山の注意しておくべき動作だ。鞍部からは急な登りだが、アイゼンの力で登りやすい。次第に勾配が緩くなり、石碑のある頂上に着く。時計を見ると鞍部から18分で登頂。牛舎から2時間45分、頂上を踏んだ。



二ッ森がその全容を現したのは、下山して放牧場の上であった。参加者たちから、歓声が上がる。鞍部から登りつめた斜面がくっきりと見えている。トレースを一列になって歩いたメンバーは、好きな方向へバラバラになって散らばっていく。歓声を上げながら振り返る二ッ森の景観は何度見ても飽きることがない。一本松の方から、「こっちを撮って~」と声がかかる。風雪に耐えて登頂を果たしたチームへ、山の神様がかけた微笑みであった。




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断腸亭日乘

2017年02月24日 | 日記


「冴えかえる」という言葉は、この季節の特徴を表したことばで古くから使われている。春のような穏やかな日に続いて寒気が入り、雪が降って震えるような寒さがくることである。「冴ゆ」は冷える、という意味で冴え凍る、という言葉もある。昨日までの雪雲は去ったが、青空から雪がひらひらと舞い落ちるような寒さだ。こんな気候の日は空気が澄んで、窓から見える山がくっきりと見える。肉眼で見るのと、カメラの画像ととでは景色の印象が異なっていることも少なくない。雪が少なくなっているのか、山全体が群青色を濃くしている。

『断腸亭日乘』は永井荷風の日記である。昭和20年の2月25日の項目を見ると、空襲がいよいよ激しくなった東京の様子が書かれている。

「日曜日。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪ふりゐたり。飯たかむとするとき隣人雪を踏むで来り午後一時半米国飛行機何台とやら襲来するはずなれば用心せよと告げて去れり。心何となく落ちつかねば食後秘蔵せし珈琲をわかし砂糖惜し気なく入れ、パイプにこれも秘蔵の茛をつめ除に烟を喫す。もしもの場合にもこの世に思残すことなからしむとてなり。とかくするほどに隣家のラジオにつづいて砲声起り硝子戸をゆすりしが、雪ふるなかに戸外の穴には入るべくもあらず、夜具棚の下に入りてさまざまの事思ふともなく思ひつづくる中巷漸く静になりやがて警戒解除と呼ぶ人の声す。時計を見るに午後四時にて屋内既に暗し。」

夜型の生活を送っていた荷風は、この日起床したのは昼少し前の11時半である。隣人の生活音が聞こえているとはいえ、連日波状に起るアメリカの空襲は一人暮らし荷風を、押入れの隅に潜りこませた。庭の隅に防空壕を掘っていたが、雪の降る中さすがにここに入る決断はできなかったであろう。荷風は空襲を迎え撃つ砲撃の音を聞きながら、この世の終わり、自身の身の終りを予感しなが押入れの中ですごした。荷風が長年住んでいた偏奇館が焼失するのは、この日から十数日後のことである。荷風はそこが見える人の庭の隅から偏奇館の燃えるさまを見ていた。ひときわ高く黒煙が立ちのぼったが、それは荷風の蔵書が焼けた煙であった。
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杜甫の春

2017年02月22日 | 漢詩


24節気の雨水が過ぎても、春は停滞している。昨日は凍てつく寒気、そして今日は日差しがある。こんなとき、春を先取りして杜甫の春の詩を読むのも心楽しい。昭和の財界で指導的位置にあった鈴木治雄の『古典に学ぶ』に、杜甫の詩の読み方が書かれている。それによると、碩学である吉川幸次郎の『新唐詩選』を未読するべきとある。その『新唐詩選』の冒頭に掲げられているのは、杜甫の「絶句」である。昔の高校の教科書にも載っていた詩である。

江碧鳥逾白 江碧にして鳥逾よ白く

山青花欲然 山青くして花然えんと欲す

今春看又過 今の春も看のあたりに又過ぐ

何日是帰年 何の日か是れ帰る年ぞ

絶句は一句五言で、20文字の短い詩である。吉川の解説によれば、江とは揚子江の本流または支流で、西南中国の大河はみな江と呼ばれている。碧は碧玉の深緑の水面。日本の川の水面のはばを想像すべきでない。なぜなら中国は大国で川の幅も広く、瀬戸内海の海峡のような広さと考えるとよい、と説いている。そして、その水面の上を飛ぶ真白な鳥。その色の対比によって、くっきりと白さが強調される。この白い鳥は、見る旅人の悲しみ誘う白さを誘う色、と想像をふくらませる。

承句では、江ののぞむ背景の山々を描写している。青は壁の鎮静は青さであるのに対して、青は発散的な勢いのある青としている。吉川は壁が中国言語で短くひきしまった音であるのに対して青が跳ね上がる音であることに注目している。わきあがるような新緑の山々、加えてその景色をめざましくするのは、火のような赤さで、あちこちで開く花たちである。

転句では、季節や時間の移りへと視点が変わる。この春もたちまち、次の季節へと移っていくであろう。吉川さらに説く。この推移は、自然ばかりではなく、それを看過ている己もまた推移する。そして老いていく。この推移を押しとどめようとする意欲が、風景の熟視となってあらわれる。かくて結句では、詩人は、おのれの悲しみを述べる。来る春も、来る春も、おのれの生命は旅人として推移する。帰る日は近づくのではなく、むしろ遠ざかっているような気さえする。

杜甫の危惧は現実のものとなり、帰京を果たせぬまま湖南省の舟のなかでなくなる。たった20字の詩のなかに、自然のうつくしさ、それを見る旅人の悲しみを、あますところなく表現し尽す。

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