常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

秋の七草

2012年08月31日 | 日記


猛暑が続く。せめてブログの話題は秋にしたい。こうして書いている間にも顔から汗がしたたる。人が暑いと話すだけで、いくら暑いと云ったからとて涼しくなるわけもないのに、とつい批判がましい気持ちが起きる。

万葉集に

萩の花尾花葛花撫子の花をみなえしまた藤袴朝顔の花 山上憶良

と秋の七草の花をならべて詠んだ歌がある。一見、花の名だけが出る、和歌とはいいがたいものに見える。しかし、子供たちに教えた数え歌と指摘するのは、「万葉集釈注」を著した伊藤博氏である。

この歌が詠まれたのは天平2年、山上憶良が筑紫国守として赴任したときであった。「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ」と詠った憶良である。大好きな子供たちを集めて花の名を数え歌にした。伊藤博氏のこの歌の訳は

一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこのはな、うんさよう、五つにおみなえし、ほらそれにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。

大勢の子どもたちを前に、憶良は指を一本ずつ折って、大きな声で教えたと解説している。

尾花、つまりススキの穂は開き、葛の花は終わりかけている。だが、萩の花の開花はもう少し待たねばならない。なでしこは日本中の誰もが知る花になった。サッカーの女子チームの名に冠された花だ。

おみなえしは気にかけずに見ているせいか、野原でこれがおみなえしだという自信はない。黄色の花をつける大柄な草だ。藤袴は蕾が紫で花はピンク、私の住んでいるあたりではあまり見かけない。

ところでススキが風に揺れるさまは、袖を振って人を招く姿を連想させ、王朝人の恋の小道具に使われた。「大和物語」に以前通っていた女が尾花に文を結んで歌を送った話がある。その文を見て男は

秋風になびく尾花は昔見したもとに似てぞ恋しかりける

と尾花につけた文に色よい返事がきた。女はさらに返して

たもとともしのばざらまし秋風になびく尾花のおどろかさずは

私が便りをしなかったならば、私のことなど思いだしもしなかったでしょうに、と皮肉をこめている。結果二人のよりが戻ったかどうか、物語は触れていない。

答えは古今集の在原棟梁の歌にある。

秋の野の草のたもとか花すすきほにいでてまねく袖と見ゆらん

文を受け取った男が在原棟梁であることが、この物語の類似からみて推察できる。男はふたたび女の機智をよろこび、女のもとに戻った。
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小さい秋

2012年08月30日 | 日記


サトウハチローが作詞した唱歌「小さい秋みつけた」で、小さい秋を表わしているのは、「もずの声」と窓の隙間から入ってくる「秋の風」、そして教会の風見鶏にからんだ想い出の「赤いハゼの葉」である。大きな秋とは言わないだけに、小さい秋とはどんな秋か。それは「だれかさん」だけが見つけた、まだ誰も気付かない限られた秋である。

連日の猛暑で、秋が来ているといっても、なかなか信じてくれる人はなさそうである。私が云う小さな秋は、デジカメが見た猛暑のなかの秋である。朝の散歩もこう暑くては、時間も限定される。めったに行き会う人もない。きょうは、朝の散歩に旧厚生年金センターの裏の棚田のあるコースをとる。

棚田の稲穂は実が入り、頭を垂れていた。田には日照りに備えて十分な水が入てあり、黄金色とはいかないが、こころなし色づいた稲田である。山の斜面を切り開いた棚田である。この田にはどれほどの人の汗と苦労が埋もれているだろうか。わづか40坪ほどの野菜作りで疲労困憊している身にとって、こんな傾斜の地形での土との格闘は、想像を絶する大事業だ。世代を越えた血と汗の結晶が、いまここで実を結んでいる。

昨日こそ早苗とりしかいつのまに稲葉そよぎて秋風ぞ吹く 古今集・詠み人知らず



ススキが花を開き始めた。穂がけものの尾に似ているので尾花ともいう。秋の月見には、ススキを供える習慣があったので、欠かせない花である。秋の七草にも数えられている。稲もススキも残暑とは関係なく、花を咲かせ実をつける。

をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田 蛇笏



実といえば、桐の実が珍しい。熟すと褐色になって縦に裂け、中に入ってたくさんの種子がこぼれる。種子には膜状の羽がついて、風に吹かれて遠くに飛ばされる。落ちたところで芽を出して、子孫を広範囲に残す仕掛けを持っている。生け花の素材として用いられるので、愛好家には知られている。葉は大きく、風で落ちる。その音の大きさで、人に秋の訪れを知らせた。



柿の実も着実に大きくなっている。青い実は食欲を感じさせないが、そのつややかさは実に美しい。ふと山里でたわわに色づいた柿の木を思い出す。親戚から車につけきれないほどの柿をいただいて、家で皮を剥き、軒に吊るして干し柿にする。あと二月もしないでそんな季節を迎える。
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羊雲

2012年08月29日 | 雲の名


雨がない日が続く。気温35℃、たまに降るのも極地的な雷を伴う夕立だから、梅雨の時期を含めて少雨の夏ということになる。蔵王ダムや白川ダムなどの水がめの貯水も減少し、満水の20~40%の状態であるという。ニュースで雨乞いをする自治体もでてきたということだ。農園の方では、水かけをしているが、この乾燥には耐えられずは葉ものは断念、種まきもいつできるのか、不安である。

空には羊雲が出た。低気圧が近づいて大気中の水分が多くなると、この雲量が増え雲塊が密着してくる。こうなれば天気の変わる前兆だ。どこかで行った雨乞いが効を奏したのか、天気予報でも明日は日本海北部に雨マークがついた。

この雲を見ていると、かって山口百恵が歌っていた「いい日旅たち」を切なく思いだす。

ああ 日本のどこかに
私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち ひつじ雲を探しに
父が教えてくれた 歌を道連れに

いまネットを開いて聞いてみても、百恵ののびやかで響きのある歌声は、昔と変わることなく心に届いてくる。それにしても、谷村新司がつくった詞は、なぜこうも切なく訴えかけてくるのか、謎である。あるいは、子供たちが親のもとから旅立っていったことと、心のどこかで結びついているのかも知れない。

考えてみると、この詞で、「日本のどこか」がキーのフレーズになっている。このフレーズはグローバルな時代、「世界のどこか」であってもいいはずだ。だが、この歌がヒットした時代にも、いまも変わることなく、日本には、まだまだ知らないたくさんの場所がある。同じ場所を見てさえ、いままで見えなかった発見がいくらもある。

こんなことを考えながら空を見ていると、羊雲はどんどんと姿を変える。夕焼けが雲の底にうっすらと現われた。

秋雲の厚きところは山に触る 篠原 梵
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橘曙覧の命日

2012年08月28日 | 読書


越前福井の歌人、橘曙覧(たちばなあけみ)が没したのは、明治元年8月28日のことである。享年57歳であった。正岡子規は曙覧を評して、「趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に万葉あり、後に曙覧あるのみ」と万葉と並べて絶賛している。

曙覧は本居宣長の国学に惹かれて、その学問を志し、同時に歌の道へも分け入った。生前は世に受け入れられず、その生活は赤貧洗うがごとしものであった。松平春嶽公が曙覧の家を訪れたときの様子が書き残されている。「壁は落ちかかり、障子は破れ、畳はきれ、雨は漏るばかりであるが、机には書物をうず高くのせ、人麿の像があやしげな厨子に入れてある。屋のきたなきこと譬え方なし。しらみなどもはいぬべく」と、あまりの粗末な住いに驚いている。

だが、本人はそうした暮らしを苦にする様子もなく、日々の楽しみを求めて数々の和歌を書き残した。連作「独楽吟」は、その代表であろう。

たのしみは 艸のいほりの 筵敷き ひとりこころを 静めをるとき

たのしみは すびつのもとに うち倒れ ゆすり起こすも 知らで寝し時

たのしみは 珍しき書 人にかり 始め一ひら ひろげたる時

たのしみは 妻子むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物を食ふ時

たのしみは 物をかかせて 善き価 惜しみげもなく 人のくれし時

たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時

たのしみは 空き米櫃に 米いでき 今一月は よしといふ時

たのしみは まれに魚烹て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時

ある時、知人が家の荒れ果てているのを見かねて、壁の修繕に人をよこした。その人は実直で、曙覧に机や書物をどかせては、壁を塗って廻った。曙覧が「もういいから」と言っても聞き入れずに仕事を続けるものだから、隅に小さくなってうろたえているばかりだった。職人の手作業に見とれて、自らの身の置き所も見つからないという有様である。

幕末の国学者であった曙覧は、時代の趨勢のなかで、やはり勤皇の志しが強かった。「赤心報国」はその志を吐露した男性的な歌である。

国を思ひ寝られざる夜の霜の色月さす窓に見る剣かな

昨年、日本詩吟学院の吟詠コンクールの課題吟に、橘曙覧のこの歌が選ばれた。詩吟を吟じるものは、作者の人となりや心のありように思いを馳せながら、自らの吟を磨いていくべきであろう。
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青春通りの壁画

2012年08月27日 | 日記


空には雲の峯がいくつも見え、35℃前後の暑さが続く。夕方には、市内のあちこちで雷鳴が響き、ところによって強い夕立が来る。沖縄の方に強烈な台風がきているが、いまのところ気圧配置に大きな変化は見られない。

生協桜田店の玄関前の通りを東に上り、13号線とのの交差点を更に東に上る道を誰が呼んだのか、青春通りという。その先に東北芸工大があり、若者が群れる通りだから、あるいは青春通りと云われるのかも知れない。私の朝の散歩コースでもある。道の北側に川が流れ、その川の堤にせり出すような形で店が作られている。

焼きたてを売るパン屋さんがある。そのパン屋さんの隣の敷地の壁に向かって絵筆を握る女学生風の絵描きさんが登場したのはこの夏の早朝であった。毎朝の散歩の度に、壁に描かれる壁画がだんだんと形を現していく。よく見ると路上パフォーマンスを見る豆粒のような人々が描きこまれている。ブリューゲルの現代版のような壁画が完成しつつある。



この壁画の向こうには、キッチンエコーという洋食屋さんがあった。だが、昨年不幸なできごとがこの店に起った。確か、昨年のまだ寒い頃、震災のすぐ後のことであったかも知れない。昼の仕出し弁当を依頼された店の主人が、夜を徹して弁当作りを続けたが、明け方に出火、店は全焼し、この店で作業を終えていたご主人は焼死したのである。

焼け跡は長く放置されたままになっていたが、最近、ようやくとり片付けられ、隣との境の壁(高さ2m×幅20mほど)に街の賑わいが描かれたのである。悲しいできごとがあった場所を、この壁画で清め、人々の心に安堵を与えようという意図があるのであろうか。女学生風の絵描きさんたちの所作が美しく、朝の空気のなかで清々しい雰囲気を醸し出していた。

キッチンエコーには私の青春の思い出がある。
昭和37年のことである。私はA広告社という大手新聞社専属の広告代理店に就職した。そのころの広告代理店というのは、今日のような華やかな業種ではない。新聞社は地方への新聞拡販の戦略として、県域の記事を載せる地方版を競って設けた。その下欄が広告スペースで地方の広告を掲載した。私が就職した広告社はその地方版広告の募集であった。

足は支局にバイクが1台、外は自転車を使用して営業に歩いた。学校を出たての若造である。商売のことも、世間の常識にも疎かった。幸いなことに○○新聞の広告ですと、新聞社の名を出すと、話だけは聞いてくれた。学生のころ行事のプログラムに協賛の広告をお願いに歩いた経験しかない私は、「やまがた味の店」という企画書を持って繁華街をあるいた。どの店のご主人ともほとんどが初対面である。

向かう先は、右も左も分からない若造の話を聞いてくれる主人のいる店ということになる。そんな中に、キッチンエコーという小さな洋食屋さんがあった。10人ほどが腰掛けられるカウンターがあり、対面にキッチンがあった。ご主人の名は児玉さんといった。「やあ、まあ掛けなさいよ。」児玉さんには方言の訛りがなかった。広告をお願いしに行った私に席をすすめ、コーヒーを出してくれた。

北海道生まれの私が、一番苦手だったのは山形弁である。早口で聞きなれない言葉が次々と飛び出してくるので、営業にいっても先方の話が半分も理解できなかった。どだい、「いいべ」といわれても そのニュアンスから、承諾したのか、断ったかも判断できないことがしばしばだった。そんななかで、児玉さんの口調は歯切れがよく、肉の部位など料理の方法をからめて分かりやすく話してくれた。ヒレカツがこお店一番の好評メニューだった。

児玉さんが「味の店」のレギュラーになってくれたたのは云うまでもない。若造の私に、「このごろの客にはいろんなのがいてね。食べ終わって、やあ、と片手をあげて出ていくのさ。付けだよ。これがためこんで中々払わないのさ。」と愚痴をいうこともあった。この企画から、三桝、そばの萬盛庵、うなぎの染太、洋食の中村屋など山形の名店が紙面に顔を出すようになったのも懐かしい思い出である。

キッチンエコーが繁華街から青春通りに店を移したのは、児玉さんの代が代わってからであろう。この店にも2,3度いったが、もう昔のメニューではなく、窓から川の流れを見下ろしながらいただく現代風のしゃれた店であった。
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