常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

中秋の名月

2012年09月30日 | 日記


きょうは中秋の名月、その月を狙い打ちするように、台風17号が接近している。今夜の月は、雨か雲にさえぎられて見られそうにない。良夜をこよなく愛し、空に浮かぶ月を見て、故郷の肉親や友人の顔をその月に重ねるのが、古来日本人の大切にした風習であった。だが雨や雲にさえぎられて見えない月もまた愛されたきた。月の出ない十五夜を無月という。そんな時は、風の音を楽しむという風流心があった。

月なうて悲しかりけり松の風  才 麿

雨が降れば、雨月と呼んで親しんだ。さすがに風流人の負け惜しみのような気もする。ならば今夜のように、台風にかき消された月は、どのように楽しめばよいのだろうか。

雨の月どこともなしの薄あかり 越 人

月を見る習慣は、唐の国が本家である。白楽天が、辺境の地へ左遷させられた友人を、十五夜の月を見ながら、思いやる詩はあまりにも有名だ。

三五夜中新月の色

二千里外故人の心

三五夜とは十五夜のことである。登ったばかりの名月によせて、二千里離れた君のことを偲んでいるよ。いま、そちらで、どんな気持ちでいるのかね。そして、

猶恐る清光同じくは見ざらんことを

広陵は卑湿にして秋陰足し

と詠んで、君が左遷させられた広陵は、湿気が多く曇り勝ちで、きょうの名月をみられないのではないかと心配している。

ところで、日本では地上から月を眺めるのが伝統であるが、宇宙船に乗って月面は降り立った人々がいる。その第1号は、1969年に月面着陸した、アメリカ宇宙船アポロ11号の船長ニール・アームストロングである。飛行船から月面に降り立ったアームストロングは「私の一歩は小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」という有名な言葉を吐いた。私は、この衛星中継を、近所の家のテレビで見せてもらった。

アポロから見た月は、太陽の光によって刻々と色を変える。褐色から灰色、そして太陽が当たる昼間は、白く輝くという。そのとき、月から遠く地球が見えていた。「地球は青かった」というのは、ソ連のガガーリンの言葉だが、月から見た地球には、写真には捕らえきれない形容しがたい美しさがあるという。地球を覆う大気と水が作りだした、神秘的な美しさだ。

近代技術の発展によって、月を見るという、人類が地上に現われたときから続いた行為とは反対に、その月から地球を見るという信じられないようなことが可能になった。宇宙船地球号という言葉は、この宇宙への探求から生まれた言葉である。この地球には、乗せきれないほどの人間が生きている。もはや限られた財産である地球をシェアしながら共存するほかに、人類の生きていく道はない。人間同士が、国境や信条の違いを巡って争いを繰り返すことは、とうてい許されることではない。


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吹越山(ふきごしやま)

2012年09月29日 | 登山


尾花沢には3つの知られた山がある。第1に御所山、そして翁山、最後に二つ森である。いづれも市の東側にあり、宮城県と県境を接している。その中で翁山は標高1075m、名前が表わすように優美な丸みを帯びた山容である。この山で、ある武将が白い鹿を見つけ、山頂付近に追い詰め、矢を射ようとしたとき、その白鹿が白髪の翁に姿をかえ、「私は春日大明神に仕えている翁だ。この地方に住む万民、すべての生きものを助けるためにこの地にやってきた」と言って姿を消した。

その真偽はわからないが、この山を翁山と呼ぶようになった、とされる伝説である。夏、登山道には山ユリが咲き乱れ、地元の愛好家に人気のある山だ。この山から、稜線を南へおよそ2キロにあるのが、吹越山だ。リーダーはこの山を「ふっこしやま」と呼んだ。ところが、地元に人に尋ねても、「ふっこしやま」という呼び方が通用しない。さんざん地図を見せながら聞くと、「それ、ふごしやまだよ。」と訂正を強いられた。帰って地名事典にあたってみると、「ふきごしやま」が正解であることがわかった。

中島の集落から、吹越山の林道へ入ると、地元の人にさえこの林道が知られていないことがよく分かった。それほど、この林道が使われていないために、雑草が道を覆い、その先が見えない状態になっている。多少の難路に怖じないリーダーが、これでは登山口まで行けそうにない、ともらすほどの悪路であった。しかし、道は舗装がしっかりしており、徐々に登山口に近づく。

登山口から見える吹越山は、ガスがかかって霞んでいる。標高1050m。この頂上には登山道がないため立つことは出来ないが、そこを迂回して黒倉山までいくことにする。



取り付けの林道が悪路だったのに引きかえ、黒倉山から翁山に行く登山道は下刈りがしてあり、写真のように立派だ。この山は宮城県から来る登山客が多く、そのために道に手が加えられているのかも知れない。たった一人この地点で出会った登山者がいたが、やはり宮城県からで、車を止めた場所からここまで45分の歩きとのことだった。



稜線にでると、ガスが心なし薄くなり、気温も上がってきたようだ。登山道から右手に薬莱山が見える。山の木を削ったスキー場がある。そこは宮城県だから、考えている以上にここが宮城県のエリアであることが分かる。道の脇に大きなリンドウが咲いていた。紅葉の季節の前触れの花が、山にわずかな彩りを添えている。



11時ころになって、日がさしてきた。台風の影響か、気温が上がっているのがわかる。黒倉山がどこか、特定できぬまま、尾花沢の田んぼが見える稜線へ帰る。駐車場からわずか2キロ、秋の里山の風景である。翁山からこちらへ足を伸ばす人はあっても、吹越から黒倉山、翁山とたどる人はこの道の状況からみてほとんど皆無であろう。
山中でわずかばかりの雑きのこを見つける。山ぶどうは、このあたりでは実をつけていない。この稜線で昼食をとって下山する。歩行距離4.3キロ、往復時間2時間半。


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枝豆

2012年09月28日 | 日記


畑に行って、初めての枝豆(秘伝豆)を収穫する。
小雨が降り、蒔いた種は順調に生育している。枝豆を見ると、実が入っているようすなので初物を少しだけ取ってきた。

塩もみをした豆をさっそく茹でる。まず、鮮やかなグリーンに感動する。次には、そこら中に漂う、甘い枝豆の香りに2度目の感動。そして、口にすると香りが口に広がり、豆の持つ甘さと香ばしさに3度目の感動がやってきた。

枝豆は8月のお盆過ぎから市場に出回る。庄内産のダダチャ豆は、早稲種で8月の上旬から出回っている。私が栽培した秘伝豆は、一番遅く、10月の寒さがやってくるまで収穫できる。陰暦の9月13日は、後の名月だが、この日は枝豆を供えたので豆名月と呼ばれる。

私は豆に目がない。枝豆に実が入り、本来の豆になったものを炒って食べるのも大好物である。ピーナツ、ひよこ豆、小豆などどれも区別なく好む。豆の持つ香ばしさが、好きである。多分豆に含まれる油脂が、熱を加えることで出てくる香ばしさのせいであろう。

枝豆や三寸飛んで口に入る 正岡子規

枝豆はもともとが関東のもので、関西では食べなかったという。そういえば、納豆も関西では食べないと聞いている。だが、最近では、関西で納豆を食べる人が結構増えたらしいので、枝豆を食べる関西人が珍しくなくなった。

なにはともあれ、ビールに枝豆はつきものであると、言っていい。まだ、会社勤めをしていたころ、飲み屋で出てきたつまみが、朝取りの枝豆で、その甘さに感動したことが忘れられない。いま、自分が栽培した枝豆が、その時の味に匹敵するのが何よりもうれしい。
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北海道への旅

2012年09月28日 | 日記


小雨、気温22℃。
来月4日から久しぶりで北海道の深川市へ行く。目的は姉に合うことだが、沼津の兄と合流して、定山渓、旭川あたりで昔の思い出に浸りたい。

深川はなにもない町だが、高台に登れば、石狩川の蛇行の様子が見える。須知徳平は岩手にあって活躍し、第1回吉川英治賞を受賞した作家だが、昭和25年から28年まで深川西高の教師として教壇に立った。須知がその当時を回想した一文がある。

「ある冬の日の一日、石狩川のはるか向こうにそびえる音江の山にスキーにいったことがある。その峠の上から見渡した石狩川は、真白い雪原を割って大きく蛇行している黒い流れであった。--あの流れはどうして黒いんだろう。雲や雪に屈折した光の作用によって黒くみえるんだろうか、それても川底の岩床が石炭かなんかでできていて、それで黒く映ずるのだろうかーーー。」

須知の感じた疑問は、旭川のパルプ工場から流れ出る廃液であることを知って解決するのだが、工場の公害がこんなに早い時代からその芽を出していたことに驚く。

戦前のことだが、昭和7年に兄弟3人でこの地を旅した斉藤茂吉は

音江村の高きに居ればとほどほに石狩川のうねりたるみゆ

とやはり、雄大な石狩川の景観を詠んでいる。私の姉は獣医を生業とした夫に嫁いだが、その実家が、音江村の国見であった。国見峠を通るたびに、このうねりを幾度見たか数えることもできないが、やはり今度もこの流れを見てきたいと思う。

本棚から須知徳平の古い文庫本が出てきた。講談社文庫『春来る鬼』である。たしか、この話は小林旭が主演して映画化されたと記憶している。ページを繰ってみると、「三陸津波」という小品に目が行った。

読み進むうちに、この話の舞台が岩手県宮古市田老川口であった。主人公のおゆうはここで2度の津波に会って生きのびるが、ほとんどの肉親を津波で失った。田老地区では明治29年と昭和8年の津波被害の教訓から、万里の長城と呼ばれる高さ10mの大防波堤を建設した。昭和35年に押し寄せたチリ津波では、この防波堤は威力を発揮し、被害を食い止めている。

須知の書く津波の場面は緊迫感に満ちている。
おゆうの体のなかには、明治29年の津波の経験が生きていて、息子夫婦への指示も的確である。

あの、海の底の砂礫を、貪欲にひきさらってゆく、無気味な海鳴りがきこえてきたのだ。
「--津波だ」
「川水が退けてきたじゃ。お母さーー」
裏から勇作がとんできた。
「勇作、キクを連れて逃げろーー津波が来る。間違いねえーー」
それから表に向かって、大声で叫んだ。
「津波だーー津波が来るぞ、山さ逃げろ、早く逃げろーー」

大防波堤ができて孫のしづがおゆうに語る。
「でもなァ、婆っちゃ。こんなでっかい、万里の長城ができたもん。もういくら津波が来たって、おっかなくねえよ」

だが平成11年3月11日の東日本大震災では、この堤の倍もある津波が押し寄せ、田老地区にまたも甚大な被害をもたらした。
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江戸紫

2012年09月27日 | 日記


江戸紫といえば、かつて三木のり平のコマーシャルで有名になった海苔の佃煮を思い出すが、その話ではない。紫草の根で染め上げる特別な染物についての話である。紫の衣服が、日本では高貴なものとされてきたが、紫根といわれる紫草が入手し難い稀少な植物だったため、紫の布が稀少で高価だったせいである。

万葉集の額田王と大海人皇子の有名な歌のやりとりに紫草が出てくる。日本では、こんな昔から、紫草の染色の技術を身につけ、天皇や宮廷の身分高い人の衣服を作りあげていた。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る    額田  王

紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我れ恋ひめやも  大海人皇子

この歌は天智天皇が蒲生野に紫草を取りに、皇太子、妻の額田王以下大宮人を引き連れて出かけた宮廷行事の際に詠まれたものだ。この歌を相聞歌として、天皇の妻が、その弟との危険な恋として解釈する向きもあるが、それでは面白くない。野遊びの後の宴席で人から疑いをかけられるような行為を笑い飛ばし、宴会の満座の喝采を浴びるかけあいと見る方が、万葉時代の宮廷の雰囲気を味わえる。

この紫草の伝統は、源氏物語に引き継がれている。その中で人々の注目を浴びたのは、「紫の上」であり、これを書いた女房は紫式部と呼ばれるようになる。紫の着物が似合う紫の上は、皇后藤壺にひき写しの特別の女性として描かれている。このように特別な紫は庶民の人が用いることを禁じられ、禁色として一般に普及することはなかった。

ところが江戸時代になって、8代将軍吉宗の推奨によって、染殿が設けられ、多彩な染色が江戸の人々の需要を満たし、そのなかの紫染めが江戸紫として江戸の特産として成長を遂げたのである。歌舞伎「助六」では、江戸紫の鉢巻を締めた助六が、見せ場で切る啖呵「江戸紫の鉢巻に髪はなじまめ」の科白が大当たりとなり、団十郎の代表的な伊達姿として江戸中の話題をさらうことになった。

つい1週間前に、前例のない残暑に音を上げていたが、もう気温は25℃を割り込み、寒ささえ感じる。ヤマブドウ、紫式部、ドクブンドなど、秋の実の紫がその深みを増している。紫の似合う秋を楽しめればいい。



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