常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

大晦日

2019年12月31日 | 日記
10時現在で雨。青空と雨雲、そのなかに薄く虹が見えた。大晦日に虹を見るのは珍しい。予報によれば、これから天気は荒れ模様となり、雪が降るらしい。今現在では本当だろうかという気がしてくる。今年もあと一日となっても特別の感慨はない。身の回りの日常が大きな変化を迎える、という希望や夢もいつの間にか失せている。ただ、明日を思いわずらうのではなく、一日一日を大切に生きていくことを心に刻む。寒気が厳しくなるのはこれからだが、その先には春の光りがさして来る。

去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子

戸外での散策。かっては日課であったが、最近遠ざかり気味である。新しい年は、もっとウォーキングを日課にしていくつもりだ。昨日、散歩に出かけたが、写真を数枚撮って帰ってきた。それだも、庭先でツルウメモドキを植えている家があった。新年の玄関先に飾るにふさわしい枝ぶりであった。

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回顧、令和元年の山行

2019年12月30日 | 登山
姥ケ岳から湯殿山へ

Googleフォトに収めているファイルを開いて、今年の山行をふり返ってみた。燕岳、常念そして立山は残された写真の迫力は上位に来る。しかし、捨てがたいのは、姥が岳から湯殿山に向かう途中で見た朝日連峰の雪景色だ。雪国に育ち、また生涯を雪の降る場所で暮らしているせいか、山の雪景色は懐かしい。つい先々週は、上山の三吉山からの飯豊、朝日連峰の雪景色、またその前は、百石山からの飯豊山もみた。雪のなかに眠るふるさとの山々には、その麓で暮らす人々にやすらぎを覚えさせる。深い雪が、山で暮らす生きものをやさしく包み込み、陽春がくるまで守っている姿を見ている故なのか。

今年の山行をふり返ると、もう一つの視点が浮かんでくる。それは、山形百名山である。今年登った山形百名山は、大岡山、高ツムジ山、瀧山、甑岳、白太郎山、姥ヶ岳、湯殿山、葉山、雁戸山、葉山、倉手山、御堂森山、火打山、鳥海山、祝瓶山、亀割山、大高根山、熊野山、百石山と実に18座を数える。中でも、余り知られない里山に魅了された。それらの山は、麓に住む人々の宝の山になっている。山道の整備も、自治体の努力もさることながら、山好きの愛好会という組織で日々山道の整備を行っている。大高根山に登ったのは、紅葉が終りに近づいた10月末であったが、刻々と落ちて来る枯れ葉を、箒で掃除している人に出会った。

地域の人々に愛されている里山には、四季それぞれの魅力がある。雪景色、新緑、山菜、きのこ、そして紅葉。頂上からは麓の集落や取り巻く周辺の高山の眺望もほしいままである。500m足らずの低山に、こうした魅力がいっぱい詰まっている。白太郎山、御堂森、大高根山、百石山、熊野山などがその素晴らしさを再発見した山々である。これらの山の四季の変化に触れること、私たちのこれからの山の楽しみ方であるような気がする。そのためににも、足の筋肉のメンテナンスが大切になる。
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2019年12月29日 | 論語
中国文学の泰斗、吉川幸次郎博士に、『論語について』という文庫本がある。昨日述べた「仁」が分かりやすく書かれている。本の大部分は古典講座「論語」で、NHKのラジオで放送されたものを書き起こしたものだ。私は、テレビの講座で先生の「杜甫」を見た。その語り口は親しみが持て、内に持った学識がにじみ出てくるように感じ、この時間が来るの楽しみにしていた。

「仁を欲するれが仁ここの至る。」これは孔子の言葉だが、では仁とは何か。
仁という言葉を解体すれば、人が二人である。そこに通じる感情、つまり愛である、吉川博士は説いている。愛という心の動きは、仁になって行く。これこそが人間の求めるべき究極の目的であって、それは学問という手段によって実現される。先年、テレビドラマに「仁」というのがあった。これは漫画のスーパージャンプに連載された医療漫画で、現代医師が幕末の江戸にタイムスリップする設定になっている。主人公の脳外科医師・南方仁の名が、漫画の題名になっている。医療技術のなかった江戸の病人を救いたいという人間愛と「仁」という医師の名は無関係ではあるまい。

日本の皇室でも仁という言葉が非常に大切にされている。歴代天皇に、仁の文字がつけられているのもそのことの証である。明治天皇睦仁、大正天皇嘉仁、昭和天皇裕仁、平成天皇明仁、令和天皇徳仁。戦後、象徴天皇となってから、国民の苦しみや喜びに寄りそう平成天皇のお姿は、広く国民の共感を呼んだ。避難所の畳の上に膝をおり、近くでお話をする姿に、これこそが仁であると国民の心に響いたのであろう。


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屋根の雪

2019年12月28日 | 論語
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ (三好達治)

ぽかぽか陽気の師走も、あと4日間。ここにきて、数ミリの雪が降った。屋根に見える雪が新鮮に映る。31日と4元日、大雪の予報である。雪が少なく困っていたスキー場も安堵の胸をなでおろしているだろうか。山本七平『論語の読み方』を、まず手始めに読んでいる。

知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者はいのちながし。(論語雍也篇)

21日に山に登ってから、もう一週間になる。登山ロスの生活があと2週、論語の言葉がその気持ちをかき立てる。考えてみれば、天気のいい日に千歳山に登るという手もある。しかし、孔子が山を歩いたのは、あくまでも移動のための山道で、それを楽しんだとも思われない。ここでは、どっしりと動かない山の姿に惹かれている人の姿である。

阿川弘之の『論語知らずの論語読み』に、この言葉をテーマにした一文がある。マダガスカル島にいる友人に誘われて、海に囲まれたこの島に行き、海老やウニを食べながら、もちろん酒も飲んだにちがいない、「論語にあるが、俺は山より海が好きだ」と言ったら、友人も「俺もだ」と答える。こんな島に行けば誰でも、そうなるに違いない。大体、孔子が活躍したのは山東省の内陸であって、太平洋やインド洋も知らないだろう、という話だ。

宮崎市定の現代語訳を揚げておく。「子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ、という諺は全くその通りだ。知者は運動が好きで、仁者は安静が好きなのだ。知者は目前を楽しく暮らす方法を知り、仁者は長寿の秘訣を知っている。因みに仁とは学問の究極の目的で、博く学んで熱心に理想を追い、切実な疑問をとらえて自身のこととして思索をこらすうちに自然と得られる。それを身につけたものが仁者である。
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年末・年始に読む本

2019年12月27日 | 日記
年末・年始はどちらかというと退屈だ。3週間は楽しみにしている登山から遠ざかる。外でのウオーキングも、気温を考えると出来そうにない。雪が降るので、畑にでかけることもできない。テレビも新味がなく退屈なものばかり。せいぜい、室内でできる筋肉運動に汗を流すくらいだ。そこで行先は読書ということになる。時間はたっぷりあるので毎年、まとまったものを読んでいる。今年、枕元に置いて読むものは、『論語』と村上春樹の長編に決めた。余裕があれば、辻邦夫の長編も再読したい。

「十有五にして学に志す」。孔子が学問に志を持ったのは15歳の時である。今日、15歳はすでに人間の才能が現れる年である。孔子の学問は遅くなってから始められた。教師が彼のもとへ教えに来たわけでもなく、学校へ通ったのでもない。いわゆる独学である。「三人行けば必ずわが師あり。その善なるを択びてこれに従い、その不善なるものにしてこれを改む。」孔子は日進月歩の人であった。73歳で死を迎えるまで、決して学ぶことを止めなかった。

こんな人の言葉を、この正月の枕元に置く。そして一度読み始めたら、置くことのできない面白さ。村上ワールドの死に隣り合わせた生の世界に浸る。


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