常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

学び続ける

2022年08月31日 | 日記
ロシアの民話にこんなのがる。老人が山に杉の木を植えていた。そこへ3人の若者が通りかかる。若者たちは、老人に向かってぶしつけな言葉を吐く。「もうすぐ、この世からおさらばしよういう年になって、そんな事したって無駄さ。木が大きくなる前に、あんたの方がくたばっちまうさ」「そうさ、それともあんたはあと百年も二百年も生きる気かい」「あははは、木を植えるより、自分の墓を掘った方が利口だぜ」

老人は若者たちの言葉にも怒るでもなく、「なあに、この木が大きくなるころは、わしはこの世におらんじゃろうが、その時孫たちがこの木の下で遊ぶようになるとそれだけで幸せなんじゃ。」そして、こんな会話があって数年後、若者たちは、嵐にあって船のなかや暴飲暴食がもとで病にかかったりして3人とも死んでしまった、という展開になっている。何だか、後味の悪い人生訓のようで興ざめしてしまう。山に木を植えるのと、年老いてから学ぶというのも同じような意味がる。

ブルーメンソールの『52の習慣』に「生涯、学び続ける」という習慣の勧めがある。「今も、これからも、新しいことを学ぶように人生を歩みなさい」というキーワード掲げられている。結果でなくプロセスを楽しむこと。好奇心を持ち続けること。情報を額面通りに受け取るのでなく、もっと深く掘りさげてみる。こうしたことは、脳内に新しいシナプスを発達させ、新しい挑戦ができるようになる。

食べものや読む本についても同じことが言える。食べたことのない新しい味に感動することで、食の世界が広がり、読んだことのない作家の本を読むことで、自分の読書の世界も多様になる。読んだ本を片端から忘れるような年になったも、新しい読書の世界は、脳を刺激し、感動する若さを保ってくれる。
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ブックオフから

2022年08月28日 | 読書
ブックオフまで、歩数にして往復3000歩程度。書棚で本を探しながら、一日9000歩のウォーキング目標をこなすには持って来いの存在だ。古書店を歩くのが若いころの趣味であったから、現代版の古書店には色んな発見がある。文庫も、一般書も100円~200円の棚が結構広くもうけられている。そのコーナーから堀り出しものを得るのは、昔の古書店の100円コーナーとは一味違った満足感がある。

昨日、選んだ2冊。ブルーメンソールの『毎日の暮らしが輝く52の習慣』200円、と文庫、平野啓一郎『ある男』。こちらは100円コーナーでなく550円。以前、読書関係の本で、ハウツーものは読むな、と教えられてきた。だが、老いとつきあうようになって『ウォーキングの科学』、『呼吸の科学』や精神科医の樺沢紫苑の『ストレスフリー』などを読むようになって、高齢者の読書には、ハウツーのような本から、貴重の情報を得る事できる読み方も必要な気がしてきた。

『52の習慣』には「音楽を聞く」という一項がある。プラトンの名言が紹介されている。「音楽は道徳律である。宇宙に魂を、心に翼を、想像力に飛ぶ力を、そして人生のあらゆることに魅力と華やぎを与えてきうれる。そして、睡眠に入る短時間、ユーチューブに登録しておいたクラシックのなかから、耳慣れたモーツァルトのメロディを聞いてみた。言われるとおり、心にやすらぎが訪れる。テレビのチャンネルを探していたら、「こころのメロディ」というのがあった。「富士の山」や「仰げば尊し」に続いて、テナー歌手の「さとうきび畑」が流れてきた。沖縄の摩文仁の丘に広がるさとうきび畑を吹き抜ける風を歌ったものだ。そこでは鉄の雨が降り、まだ死体が葬られることなくさとうきびの畑に埋まっていた。この歌を聞いていると、なぜか涙が止まらなくなった。

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読書の喜び

2022年08月26日 | 日記
昨日、日中の最高気温が23℃。ベランダを開けておくと、吹き込んでくる風が冷たくなっている。散歩道に萩の花が咲いた。ネットで槍ヶ岳の小屋を見ても、山は夏が終わったとある。小説『孔子』を読んでいると、感動的な場面にであった。語り手のエンキョウが、自らの体験を語った部分である。孔子の死後、エンキョウは師の墓の側に住んだ。無論、墓守として。その家を提供してくらた中年の夫婦が、エンキョウを訪ねた。家の掃除、食事の世話。墓守のエンキョウの世話のためであった。やがて、夫婦に遅い子が生まれる。今度は、その子をエンキョウに見てもらうことも楽しみのようであった。しかし、子はエンキョウになかなか懐かず、いつもエンキョウをさけている風であった。

やがて、2歳の誕生日に奇跡的なできごとが起きる。

「その幼い客人は、私の家に来て、どういうものか、花でも開くよう明るく笑い、母親の腕から脱けだすようにして、私の方へ両手を差し出してきました。私は初めて幼い彼女を抱くと、すぐ母親に返しました。この時、私は初めて幼い者を、この世に較べるものなどないほど、美しいものと思い、優しいものと思いました。」

ここまで読んでいた時、携帯のラインの通知がはいった。なんという奇跡であろうか。携帯の画面には、やがて2ヶ月になろうとするひ孫の、笑顔の動画である。わずか15秒ほどの動画が2本。そこには、エンキョウの見た幼子と同じと思われる花のような笑顔があった。顔を動かし、小さな手をしきりに動かしている。小説を少し読み進めると、その幼子には悲しい運命が訪れるが、家のひ孫には、そんな恐れは全くない健やかな姿だ。読書体験にはさまざまな奇跡が起こるが、こんな偶然は稀なことだ。しばらく、写真を見ていなかったので、どうしているか訊ねた返事であった。
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逝くものは

2022年08月24日 | 日記
最近、暑いせいで昼間に水分を摂ることが多い。いきおい、夜、小用に起きることが多い。その時、枕元に置く本が、井上靖の『孔子』である。以前、図書館から借りて読んだ気もするが、孔子の死後、その墓の側に暮らし、墓を守りながら訪れる人に、晩年の漂流生活を回顧する話である。エンキョウ、ひねショウガというあだ名で呼ばれる語り手は、漂泊の時代、孔子とその高弟たちと行を共にし、食事や所要の便宜を図った付き人のような存在だ。枕頭の書としては、1ページも読み終わらないうちに、眠りに落ちたり、少し興がわけば、1時間も読みふける便利な存在である。

第2章にリフレインのように出てくる孔子の言葉。「逝くものは斯くの如きか昼夜を舎かず。」中原の国々を漂流するうちに、さる川の辺に立って、ふとつぶやいた孔子の言葉である。小間使いのような仕事をしながら、偉人の言動や弟子たちの言葉に次第惹かれていくエンキョウ。その心に深く刻み込まれた言葉である。
「川の流れが大海を目指すように、人間の、人類の流れも亦、大海を理想とする大きい社会の実現を目指すに違いありません。」

詩吟の教室で、練習に明け暮れているのは、頼山陽の「述懐」である。

十有三春秋 逝く者は已に水の如し
天地始終無く人生生死有り
安ぞ古人に類して千載青史に列するを得ん

孔子の「逝くものは」を詩文に入れた山陽の詩は、人間の時間を川の流れに例え、歴史に名を残すには、死のある人の時間は有効に使うべきことを詠んでいる。

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悠創の丘

2022年08月21日 | 日記
芸工大の裏にある悠創の丘は、丘全体に芝生が貼られ、散策には持って来いの場所だ。かっては毎日ここまで散歩するのが日課のようになっていた。自宅から勾配のある坂道を約1時間、往復5㌔強の距離にある。あの事故以来、ここまでの歩きに変わって、短めのコースを歩いてきた。朝の空気が秋の気配を深めるにつれて、昨日はじめてここまで足を延ばした。脚の状態も以前のように、疲れもなくなった。何よりも、朝露にひかる芝生を見ながらあるくことが、非常に爽やかだ。山登りにも遠ざかり、鬱々とした日々が、朝の散歩によって救われる。

癒えしるき爪の半月秋日さす 馬場移公子

作家の小島直記がガンを患い、散歩も思うようにできなくなって、孫たちと歩く話がある。『人生まだ七十の坂』というエッセイだ。作家が、自分で考えた2000歩のコースである。

「おじいちゃんは病気だから、ゆっくりと行くんだよ」と念をおして歩きはじめたのですが、すぐに駆けだしてしまって、かってに2000歩のコースの方へ曲がってしまったのです。私も観念して、そのあとをそろそろと追って行きました。無論、途中でへばれば引き返すつもりだったのですが、孫に引っ張られてとうとうそのコースを歩いてしまったのです。透きとおるような青空をバックに逆光に輝くいちょうの葉がじつにきていで、元気な孫たちの声しか聞こえぬ静寂な並木道を歩いていると、いかにも秋を満喫している満足感がありました。」

こんな文章に触れると、思わず感激し、また朝の散歩に行く、モチベーションになる。秋の朝は、それほどに歩くことが楽しい。


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