常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

藤の花

2018年04月30日 | 


近所のお宅の庭の藤棚の藤が見事な花をつけた。葉桜の季節、後を追って咲くのはハナミズキと藤の花である。その紫の花は、古来日本人に愛されてきた。古事記のエピソードに、伊豆志袁登売(イズシオトメ)の伝説がある。この女性は新羅から渡来し、神の娘と言われて美しかったので多くの男性が求愛して結婚を望んだ。ここに現れた男性は春山之霞壮夫いう名であった。春と霞が入っている名が憎い。この男の母親は、息子に衣服や矢などをすべて藤で作ったものを着せてイズシオトメと見合いをさせた。その時奇跡が起こった。着ている衣服、持っている弓矢から一斉に藤の花が咲きこぼれた。これを見たオトメはカスミオトコに恋をして二人は結ばれた。

たごの浦のそこさへにほふ藤波をかざしてゆかむみぬ人のため 縄丸

和漢朗詠集や万葉集に見える歌である。海岸に咲く藤の花が水に写ってさざ波のように揺れている。空と波のダブル効果で、恋心が際立って高まってくる。これをかざしにさして、さあゆこう、まだ藤の花を見ない恋人のために。日本女性の髪飾りは、この古事記や日本朗詠集の記事や歌がルーツになっている。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三吉山の岩海

2018年04月29日 | 日記


上山にある三吉山(574m)。その頂上下100mところに岩海がある。写真で見ると砕石されたような岩が斜面を埋めている。そのなかに登山道の踏みあとがわずかについている。漢和辞典を引いても岩海という言葉は出てこない。ネットの検索では、大きな巨礫覆われた地域となっており、平坦な地域で見られ、激しい霜の作用で形成されたと解説している。山吉山のこの斜面を岩海と呼ぶには少し違和感を感じる。山吉山の解説記事にあたってみると、氷河期の痕跡という記述もあるので、いづれにしても激しい冷却が、岩石をこのようにしたものと見られる。日本の岩海として知られる広島県久井と矢野の岩海が、国の天然記念物に指定されている。

岩海の先に、新緑に交じって山桜が咲いていた。朝の光りのなかに咲くヤマザクラには、何故か郷愁を感じる。近年、桜前線の北上にともなって、桜の名所を訪ねる旅が盛んなようだが、一目千本の桜などと言われるような圧倒的な桜と違って、ヤマザクラには清楚な日本古来の美しさがある。本居宣長もそんな桜を愛した。

敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山ざくら花 本居 宣長

国学者である宣長は、古代日本人の「心」を明らかにしようとした。人間の本質を理知と見るのではなく、素直な純粋感情ととらえた。その象徴してあるのが、春朝日に輝いている山さくらの花である。

三吉山の岩海を少し登ると、今度は新緑のなかにヤマブキの黄色の花が咲いていた。振り返ると上山の市街とその先の西の山々が眼前だ。ずっと坂を登り詰めのような山であるが、千歳山に比べて短時間で頂上に着く。近年は冬にこの山に登るのが定番になっているので、春山は新鮮な感じがする。頂上には、昔仲間と突いた鐘楼があり、その先が三吉山神社である。かって斎藤茂吉の父が、出征した長男の長久を祈って、百日祈祷した神社だ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千歳山

2018年04月28日 | 日記


朝、散歩を千歳山まで伸ばした。この山に登るのは、約半年ぶりということになる。気づかされたことは、この山にはツツジの花が多いことだ。登山道の両脇、見通しのひらけた山中、大きくはないが、点々と咲いている。スマホを伴に、YAMAPをGPSとして使いながら、スマホカメラで山中の様子を記録する。新緑とツツジの点景、春の山歩きの楽しさを再発見した感じだ。スマホ写真には楽しい機能がたくさんある。家に帰ると、グーグルフォトが撮った写真を組み合せて、タイトルつきのアルバム作ってくれる。

山中で出会う人の顔ぶれも広がった。色んな個性を持つ人ばかりだ。余り登っていないのに、必ず顔を合わせる人がいる。「毎日登っていますか?」と聞いてみると、「今年90日目です。」と簡単に答えてくれる。今年はまだ100日を過ぎたばかりだ。雪の日や、気温の下がった日もあったことを思うとこれはもう毎日登っていると同じ。
脇を小走りに「お先に!」と声をかけて登っていく人がいる。6合目ぐらいであったと思うが、この人は8合目に少し先で、素早く駆け下りて行った。心なし若い女性が増えたように感じる。登りも下りも、二人の女性から追い抜かれた。以前は、一回につき一人か二人だったが、今回4人。それも学生のような若い人だ。歩くスピードが落ちてきたということか。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野の花

2018年04月27日 | 日記


今朝は畑に出かけて施肥とニラの収穫。片隅に名の知れぬ野の花が、朝露にぬれて咲いていた。こんな花を見ていると、瀬戸内寂聴の自然を見る目が妙に気になってくる。宗教、あるいは仏教には縁遠い生活であるが、寂聴の視線には不思議な親近感を感じる。

「寂庵の庭に立っていると、鬱蒼と茂って森のように見えてきた木々や草の吐く息が、見えない渦になって私を取りまいている。つい一カ月前までは、すき透るような新緑が痛々しいほど柔らかで梢の上で震えていて空の木々のあわいからレース編のすかし模様のように光っていたのに、今は重なりあう梢の葉が猛々しく茂り、一枚一枚の葉のすべてが自信ありげに全身をひろげ、コブラン織りのような厚みをもつ重いとばりになっている」(瀬戸内寂聴『嵯峨野日記』)

庭の木々や草花、野の花に生命を見ている。その一木一草が、息を吐き、その全体を包みこんでいる。私は山の自然に抱かれながら、こんな体験を持ったのことが一度ならずある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑

2018年04月26日 | 日記


山中に分け入って、緑のなかに身を置くのは心地よい。この季節、高山にはまだ冬が残り、その下の日の当たる峰に高山植物の花の咲く春があり、さらに里山ではワラビが萌え、アイコ、ウドなどの山菜が顔を出す緑滴る初夏がある。緑の葉に隠れて、しきりにウグイスの鳴き声が聞こえてくる。

山中は独語も緑滴れり 辻田 克己

滴るような新緑の季節がすぐそこにやってくる。秋の紅葉に比べると、春の新緑はやや地味な感じもするが、その美しさはけして引けはとらない。淡い緑が基調になっていながら、樹種によって白ぽいもの、赤味を帯びたもの、葉の成長にしたがって、色彩を変化させていくものなどが入り交じり、山全体を彩っていく。春の季語に「山笑う」というのがあるが、間違いなく新緑の季節をさしている。

故郷やどちらを見ても山笑ふ 正岡 子規
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする