ヒトの食事に対する考え方、感じ方は様々である。
私は「その人、我にあらず」と言う立場だから、自身以外の事は分からないし、家族の事だって分からない。ましてや他人についてはそれほど関心がない。こんな私を自覚したのは医師になってからである。医師は患者の身体的問題以上に「こころ」も重視しなければならないから、とんでもない職業を選んだものだと悔やんだ事もある。が、成り切るためには勉強と現場の訓練あるのみ、と割り切った。他人の事に関しては「多分こうだろう・・」と推論して話を合わせるやや辛い毎日が続いている。
食事に関しても私の感覚はかなりずれているのではないかと思う。
私の食事に関する感覚は、端的に言えば楽しむ感覚は乏しくて、「必要だから食べる」という感覚に近い。食事は常識範囲のものが過不足なく提供されればほぼ満足である。今の私の環境はそんな状態にある。とても贅沢な事だ、と日々感謝している。勿論、たまに味わう「私にとっての贅沢な食事」は楽しいが、過度に贅沢と思う様な食事に対しては喜びよりも罪悪感を感じる方である。
家族達からも私の食事に関してはいろいろ指摘されている。
その中の一つが「何でも美味しい、美味しいと言って食べる事が最大の不満で、つまらない人だ」、と家内を始め、料理を作ってくれる側からの評価であった。特に、40年近くも我が家の食事を担当してくれた賄いの石井さんもそう考えていたと知ったのは数年前の事である。
私の食事に関してこのように思われていた事はかなりショックであった。何でも美味しいと評価して、喜んで食べる私は、賄いをする方々から「食べさせるには最高の人だ・・」と評価されているものと「長い間信じていて疑っていなかった」からである。
顧みればそうだったかもしれない。
私が食卓で発する言葉は「うまい、美味しい」がその大部分であって、クレームは「ちょっと塩っぱいじゃないか」だけ、他には「量が多すぎる!!」、「ちょっと贅沢でないか?」・・と限られている。その上、味わって食べているんだか分からない速さでサッと食べ終わる。これでは時間をかけて食事を用意する側からは不満を感じるのもやむを得ない。
反省すべき点もあるだろう。ただ、「うまい、美味しい」の言葉は私の本当の感覚、こころからの喜びの感覚であってそこにはウソは全くない。
毎食、「うまい、美味しい」と自宅での食事を味わっている私は幸せものである。
私は「その人、我にあらず」と言う立場だから、自身以外の事は分からないし、家族の事だって分からない。ましてや他人についてはそれほど関心がない。こんな私を自覚したのは医師になってからである。医師は患者の身体的問題以上に「こころ」も重視しなければならないから、とんでもない職業を選んだものだと悔やんだ事もある。が、成り切るためには勉強と現場の訓練あるのみ、と割り切った。他人の事に関しては「多分こうだろう・・」と推論して話を合わせるやや辛い毎日が続いている。
食事に関しても私の感覚はかなりずれているのではないかと思う。
私の食事に関する感覚は、端的に言えば楽しむ感覚は乏しくて、「必要だから食べる」という感覚に近い。食事は常識範囲のものが過不足なく提供されればほぼ満足である。今の私の環境はそんな状態にある。とても贅沢な事だ、と日々感謝している。勿論、たまに味わう「私にとっての贅沢な食事」は楽しいが、過度に贅沢と思う様な食事に対しては喜びよりも罪悪感を感じる方である。
家族達からも私の食事に関してはいろいろ指摘されている。
その中の一つが「何でも美味しい、美味しいと言って食べる事が最大の不満で、つまらない人だ」、と家内を始め、料理を作ってくれる側からの評価であった。特に、40年近くも我が家の食事を担当してくれた賄いの石井さんもそう考えていたと知ったのは数年前の事である。
私の食事に関してこのように思われていた事はかなりショックであった。何でも美味しいと評価して、喜んで食べる私は、賄いをする方々から「食べさせるには最高の人だ・・」と評価されているものと「長い間信じていて疑っていなかった」からである。
顧みればそうだったかもしれない。
私が食卓で発する言葉は「うまい、美味しい」がその大部分であって、クレームは「ちょっと塩っぱいじゃないか」だけ、他には「量が多すぎる!!」、「ちょっと贅沢でないか?」・・と限られている。その上、味わって食べているんだか分からない速さでサッと食べ終わる。これでは時間をかけて食事を用意する側からは不満を感じるのもやむを得ない。
反省すべき点もあるだろう。ただ、「うまい、美味しい」の言葉は私の本当の感覚、こころからの喜びの感覚であってそこにはウソは全くない。
毎食、「うまい、美味しい」と自宅での食事を味わっている私は幸せものである。
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