高齢化社会となった今、自然に年を重ね、老いていくのが難しくなつている。
昔の老人のような、社会の中で一定の役割を果たしながら老いに向けての人生観を作ってきた良さが失なわれている。古き良き分別を備えた老人(?)がいまいるだろうか?
社会の中で高齢者は役割を失っている。糸の切れた凧のような半端な立場である。
IT産業に代表される現代の新しい産業では、つねに新しい知識が求められる。かつてのような年と共に備わる知恵や経験が完全に蔑ろにされてしまう。その結果、老いの功績よりも若さの瞬発力、持続力が大事にされる。
現代の社会では年功序列の型が失つた。老人の価値がどうしても低くなる。当然、かつて老人が尊敬されていた時代の型が失なわれた。
これは最小単位としての家庭像の変化としても同様である。三世代が共に暮らした時代にあった家庭の持つ重要な庇護機能はほぼ失われてしまった。もちろん、マイナスの面もあったが、その良さを残すことなく、家庭機能は簡単に崩壊していった。
親から独立して新所帯を持った次世代たちは、子育てを終わって子供達が離れていってしまうしまうと、老々夫婦の世帯として朽ち果てて行く。
社会的にも同じである。定年になると突然社会から放り出される。歳にふさわしい生の形が、その役割が、見失われた。
日本の高齢者は長い歴史の中で比較的厚い社会保障の庇護の中にいる。
現役世代はこの担い手として寄与し、というか、搾取され、第一線を退いた後は社会保障の給付を受ける立場となる。かつては長い間社会に貢献しいてきたことに対しての慰労的な意味を含めての社会保障であったが、いまは、社会のお荷物として消費者の立場だけが強調さている。
確かに、我が国が持つ少子高齢化の中では重要なことではあるが、高齢者は、健康、休力の維持、左は会参加の重要性ばかりが尊重される時代となった。もちろん、健康は高齢者の望みでの第一であるが、マスメディアは高齢者の健康増進の記事で一杯である。
私が強調したいのは、老境になって初めて到達できる、豊かな心境の素晴らしさの再確認である。そこには年齢に伴う諦観も伴っていい。初老に至ってもときめきの心がある。無論、それはもう壮年期のようになまぐさいものではないし、若者のようにたけだけしいものでもない。そこに大入の分別が加わつているから、青春時代の初恋のように遠慮っぽくういういしい、懐かしい感覚となる。
私は一歩、二歩スキップして、自分が迎えるであろう最期の時を考えてみるだけでも、一層心が豊になるだろうと思う。
昔の老人のような、社会の中で一定の役割を果たしながら老いに向けての人生観を作ってきた良さが失なわれている。古き良き分別を備えた老人(?)がいまいるだろうか?
社会の中で高齢者は役割を失っている。糸の切れた凧のような半端な立場である。
IT産業に代表される現代の新しい産業では、つねに新しい知識が求められる。かつてのような年と共に備わる知恵や経験が完全に蔑ろにされてしまう。その結果、老いの功績よりも若さの瞬発力、持続力が大事にされる。
現代の社会では年功序列の型が失つた。老人の価値がどうしても低くなる。当然、かつて老人が尊敬されていた時代の型が失なわれた。
これは最小単位としての家庭像の変化としても同様である。三世代が共に暮らした時代にあった家庭の持つ重要な庇護機能はほぼ失われてしまった。もちろん、マイナスの面もあったが、その良さを残すことなく、家庭機能は簡単に崩壊していった。
親から独立して新所帯を持った次世代たちは、子育てを終わって子供達が離れていってしまうしまうと、老々夫婦の世帯として朽ち果てて行く。
社会的にも同じである。定年になると突然社会から放り出される。歳にふさわしい生の形が、その役割が、見失われた。
日本の高齢者は長い歴史の中で比較的厚い社会保障の庇護の中にいる。
現役世代はこの担い手として寄与し、というか、搾取され、第一線を退いた後は社会保障の給付を受ける立場となる。かつては長い間社会に貢献しいてきたことに対しての慰労的な意味を含めての社会保障であったが、いまは、社会のお荷物として消費者の立場だけが強調さている。
確かに、我が国が持つ少子高齢化の中では重要なことではあるが、高齢者は、健康、休力の維持、左は会参加の重要性ばかりが尊重される時代となった。もちろん、健康は高齢者の望みでの第一であるが、マスメディアは高齢者の健康増進の記事で一杯である。
私が強調したいのは、老境になって初めて到達できる、豊かな心境の素晴らしさの再確認である。そこには年齢に伴う諦観も伴っていい。初老に至ってもときめきの心がある。無論、それはもう壮年期のようになまぐさいものではないし、若者のようにたけだけしいものでもない。そこに大入の分別が加わつているから、青春時代の初恋のように遠慮っぽくういういしい、懐かしい感覚となる。
私は一歩、二歩スキップして、自分が迎えるであろう最期の時を考えてみるだけでも、一層心が豊になるだろうと思う。