有田で焼かれた、日本最初の磁器は、有田での生産が、活発に成るにつれ、日本の各地窯場に、
大きな影響を与えます。
1) 京焼
京都周辺には、磁器に適した土がなく、京焼は陶器しか、焼く事が出来なかったが、
磁器とは、違った日本の色絵の世界を、作り出します。
粟田口あたりが、京焼の始まりで、このほか、八坂焼き、清水焼等の名が文献にあります。
これらの窯は、東山から北山にかけての、山麓にあり、御室焼だけが、洛西にありました。
この窯の主宰者が、野々村仁清(にんせい)です。
・ 有田の色絵と、決定的に違うのは、仁清の色絵の意匠が、中国の様式を、全く顧みなかった事で、
描かれているのは、大和絵、琳派風絵画、水墨画などの、きわめて和様の意匠で、
京都ならではの、優美な色絵となっています。
その後、仁清に学んだ、尾形乾山が、仁清の和様の色絵を、さらに展開することになります。
・ 京焼とは、粟田口焼、御室焼、清水焼など、京都で作られる作品の、総称です。
上絵付けを施す技法を、用いた陶器が多く、作家ごとの、個性が強いのが特徴です。
① 京焼の色絵は、柿右衛門の赤絵より、30年も前に、野々宮仁青(にんせい、生没不明)によって、
上絵付けが、なされていました。
但し、陶器の上絵付けで、ヨーロッパが求めていた、磁器の赤絵では、有りませんでした。
仁清の絵付けは、それまでの、「写しもの」と呼ばれる、茶器製造から、多彩なデザインの
「色絵もの」で、それまでの、京焼の作風を、変える程の物でした。
・ 天皇、皇族、貴族、僧侶などが、型紙や、図面を添えて、盛んに、仁清に注文を出しています。
② その影響を受けて、江戸初期から中期にかけて、東山山麓の各窯で、「古清水」と
呼ばれる、色絵陶器が、制作されます。
③ やや遅れて登場したのが尾形乾山(おがた、けんざん)です。
仁清に学んだ、尾形乾山が、仁清の和様の色絵を、さらに、展開する事になります。
乾山は、画家、尾形光琳(こうりん)の弟で、光琳の絵付けした物に、乾山が書を寄せる
共同作業で、数々の名作を残しました。
④ 江戸の中頃に、新しい京焼として、本格的な磁器が、焼成されます。
奥田頴川(えいせん)(1753年~1811年)は、鳴滝に窯を開き、中国明代の磁器を手本に、
京焼として、初めて古染付・赤絵など、色彩磁器の焼成を、完成させます。
これを継承したのが、五条坂の諸窯です。
木米,道八等の名工を、弟子として養成し、京焼の中に、唐物写しの、新しい傾向を
もたらします。
) 頴川の教えを受け、青木木米(1767年~1833年)は、磁器の作品を、多く残します。
主に、煎茶器を制作し、後に、青蓮院宮、粟田御所の、御用焼物師となります。
青木木米は、仁清や乾山と並び、「京焼三名工」と、讃えられます。
) 仁阿弥道八(にんあみ、どうはち)(1782年~1855年)も、奥田頴川の後を受けて、
磁器の作品を多く残します。
2) 瀬戸焼
1804年(文化1年) 、加藤民吉は、磁器の製法を修得するために、九州へ渡ります。
1806年(文化3年) 瀬戸に帰り、有田で得た技術を元に、 53歳で没するまで、
染付磁器の研究を続けました。
そして、その製法を人々に伝え、瀬戸は再び「焼き物の町」として、栄えます。
加藤民吉(たみき、1772年 ~1824年)は、瀬戸生まれの陶工で、瀬戸焼の
染付磁器を創成しました。 地元瀬戸では、磁祖と呼ばれていまいす。
・ しかし、加藤が学んだ技術は、有田から、無断で、持ち出したものです。
(当時、有田焼の技術は、当然、門外不出であった為、伝統技術の、スパイ行為は大罪で、
加藤は、決死の覚悟で、臨んだという事です)。
そのため、有田は加藤のスパイ行為によって、技術を盗まれ、後の大幅な衰退を余儀なくされます。
有田では、民吉は、極めて悪評の高い、人物となっています。
以下次回に続きます。
京焼 瀬戸焼
大きな影響を与えます。
1) 京焼
京都周辺には、磁器に適した土がなく、京焼は陶器しか、焼く事が出来なかったが、
磁器とは、違った日本の色絵の世界を、作り出します。
粟田口あたりが、京焼の始まりで、このほか、八坂焼き、清水焼等の名が文献にあります。
これらの窯は、東山から北山にかけての、山麓にあり、御室焼だけが、洛西にありました。
この窯の主宰者が、野々村仁清(にんせい)です。
・ 有田の色絵と、決定的に違うのは、仁清の色絵の意匠が、中国の様式を、全く顧みなかった事で、
描かれているのは、大和絵、琳派風絵画、水墨画などの、きわめて和様の意匠で、
京都ならではの、優美な色絵となっています。
その後、仁清に学んだ、尾形乾山が、仁清の和様の色絵を、さらに展開することになります。
・ 京焼とは、粟田口焼、御室焼、清水焼など、京都で作られる作品の、総称です。
上絵付けを施す技法を、用いた陶器が多く、作家ごとの、個性が強いのが特徴です。
① 京焼の色絵は、柿右衛門の赤絵より、30年も前に、野々宮仁青(にんせい、生没不明)によって、
上絵付けが、なされていました。
但し、陶器の上絵付けで、ヨーロッパが求めていた、磁器の赤絵では、有りませんでした。
仁清の絵付けは、それまでの、「写しもの」と呼ばれる、茶器製造から、多彩なデザインの
「色絵もの」で、それまでの、京焼の作風を、変える程の物でした。
・ 天皇、皇族、貴族、僧侶などが、型紙や、図面を添えて、盛んに、仁清に注文を出しています。
② その影響を受けて、江戸初期から中期にかけて、東山山麓の各窯で、「古清水」と
呼ばれる、色絵陶器が、制作されます。
③ やや遅れて登場したのが尾形乾山(おがた、けんざん)です。
仁清に学んだ、尾形乾山が、仁清の和様の色絵を、さらに、展開する事になります。
乾山は、画家、尾形光琳(こうりん)の弟で、光琳の絵付けした物に、乾山が書を寄せる
共同作業で、数々の名作を残しました。
④ 江戸の中頃に、新しい京焼として、本格的な磁器が、焼成されます。
奥田頴川(えいせん)(1753年~1811年)は、鳴滝に窯を開き、中国明代の磁器を手本に、
京焼として、初めて古染付・赤絵など、色彩磁器の焼成を、完成させます。
これを継承したのが、五条坂の諸窯です。
木米,道八等の名工を、弟子として養成し、京焼の中に、唐物写しの、新しい傾向を
もたらします。
) 頴川の教えを受け、青木木米(1767年~1833年)は、磁器の作品を、多く残します。
主に、煎茶器を制作し、後に、青蓮院宮、粟田御所の、御用焼物師となります。
青木木米は、仁清や乾山と並び、「京焼三名工」と、讃えられます。
) 仁阿弥道八(にんあみ、どうはち)(1782年~1855年)も、奥田頴川の後を受けて、
磁器の作品を多く残します。
2) 瀬戸焼
1804年(文化1年) 、加藤民吉は、磁器の製法を修得するために、九州へ渡ります。
1806年(文化3年) 瀬戸に帰り、有田で得た技術を元に、 53歳で没するまで、
染付磁器の研究を続けました。
そして、その製法を人々に伝え、瀬戸は再び「焼き物の町」として、栄えます。
加藤民吉(たみき、1772年 ~1824年)は、瀬戸生まれの陶工で、瀬戸焼の
染付磁器を創成しました。 地元瀬戸では、磁祖と呼ばれていまいす。
・ しかし、加藤が学んだ技術は、有田から、無断で、持ち出したものです。
(当時、有田焼の技術は、当然、門外不出であった為、伝統技術の、スパイ行為は大罪で、
加藤は、決死の覚悟で、臨んだという事です)。
そのため、有田は加藤のスパイ行為によって、技術を盗まれ、後の大幅な衰退を余儀なくされます。
有田では、民吉は、極めて悪評の高い、人物となっています。
以下次回に続きます。
京焼 瀬戸焼