わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

明治以降の焼き物

2009-12-31 11:59:33 | 世界の陶磁器の歴史
この「シリーズ」の最後として、明治以降の、陶磁器の歴史について、述べます。

1) 九谷焼

  ・ 優れた陶人の輩出や、良質の磁土の発見と共に、小松、加賀、金沢、寺井などで、九谷焼は、

    目覚ましく、発展を遂げ、明治に入って、海外への輸出で、さらに進展し、わが国製陶産業の

    一翼を担う事と成ります。

 ・ 再興九谷の諸窯は、江戸末期時点で、ほとんどが民営で、新時代に対応した作品造りに、

   努力していた為、明治維新の悪影響は、ほとんど受けず、明治に入って、より活気を、

   呈するようになります。

 ① 名工として、金沢では、内海吉造、阿部碧海(へきかい)、石野竜山、安達陶仙があり、

   能美郡では、九谷庄三、松本佐平、松原新介、初代徳田八十吉(やそきち)など、

   江沼では、竹内吟秋(ぎんしゅう)、浅井一豪(いちごう)兄弟、初代須田菁華(せいか)、

   初代中村秋塘(しゅうとう)らの名工が、よく知られています。

   富本憲吉や、北大路魯山人も、作陶に加わった時期がありました。

 ② 明治政府は、国力増強のため、殖産興業、輸出振興策を打ち出し、それに呼応するように

   九谷焼は、国内外で開催される、博覧会へ出品して宣伝します、輸出にも力を入れた為、

   輸出陶磁器の、第一を誇るようになります。

 ③ 作風は、八郎手または庄三風の、彩色金襴手と、細字の密画で、好奇心をそそるものが多く。

   これが欧米人の趣向と、一致しました。 

  ) その作風は、青(緑)、黄、赤、紫、紺青の五彩を使い、大胆な構図、のびのびとした、

    自由な線書き、豪快で味わい深く、赤色で綿密に人物を描き、その周りを、小紋などで、

    埋め尽くし、所々に金彩を加えた、赤絵細密描画です。

  ) 明治時代に入ってからは、大量の九谷焼が、海外へ輸出されました。

2) 明治以降の京焼(清水焼)

  明治以降は、近代的生産手法を導入し、日本の重要な、輸出品となっていきます。

  伝統に甘んぜず、積極的に海外からの技術も導入し、新しい京焼の魅力が、生まれ始めます。  

  しかも、京焼は、創造性や、芸術性を失わず、多品種・少量生産を特色とする、高品質の

  陶磁器の伝統も、守り続けています。

3) 洋食器の「ノリタケ」(大倉陶園)の設立

   1904年には、輸出貿易を志していた、森村市左衛門が「ノリタケ」を設立し、後の1919年には

   日本が世界に誇る、洋食器メーカーである大倉陶園が設立されました。

   ここに、日本の近代陶業と、日本の洋食器の、歴史が始まりました。  

   明治37年(1904)、「ノリタケカンパニー」の前身となる、「日本陶器合名会社」を創立し、

   愛知県、鷹場村、大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた

   大工場を建設し、洋食器の生産を始め、米国へ輸出された、日本製の洋食器は、大変に売れ、

   やがて、「ノリタケチャイナ」の名で、世界中に知られる、「ブランド」へと、成長していったのです。


 今回で、「陶磁器の歴史」の話を、終わらせて頂ます。

 次回より、別のテーマで、話を続けたいと、思います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 有田焼の影響 2 | トップ | 陶磁器の絵付け 1(下絵付) »

コメントを投稿

世界の陶磁器の歴史」カテゴリの最新記事