「会所」は、侘び茶と呼ばれる、「茶の湯」の初期の形をとっていますが、大きな違いも有ります。
「会所」では、単にお茶を飲む以外に、「闘茶」と言う遊びがありました。
① 「闘茶」とは、宇治や栂尾(とがのお)産の茶を、「本茶」と呼び、それ以外の産地のお茶を
「非茶」として、「本茶」と「非茶」を飲み分ける、ゲームの様な遊びであったと言われています。
鎌倉末期~室町時代に流行した、茶の品質の優劣を舌で競う勝負茶で、賭博性の高い遊びであった
様です。「闘茶」は漢名で、我が国では、「回茶」「飲茶勝負」「茶寄合」「四種十茶」などと
呼ばれていました。
② 栂尾茶と宇治茶
) 鎌倉時代、栄西は宋から持ち帰った茶種を「漢柿蔕茶(あやのかきべた)壷」に入れて
京の高山寺の明恵(みょうえ)に送り、明恵はその茶種を、洛西栂尾の地に植え、その後更に、
宇治の地にも播植しました。13世紀半ば、後嵯峨天皇が宇治を訪れたのを機に、平等院に
小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、本格的な茶の栽培が始まります。
)南北朝時代には、栂尾や宇治で生産された茶が「本茶」とされ、それに続くとされていた醍醐や
その他の産地のお茶を「非茶」と呼ました。茶の種類も数種類から十数種類の茶を、飲み比べ
当てる遊び「闘茶」に発展します。
他の産地とは異なる香り、味を持った茶を生産しようという傾向が生まれ、様々な産地の茶が
生まれる要因と成ります。
③ 宇治七茶園: 足利義満が管領達に命じて、宇治川の流域に七つの茶園を作らせます。
即ち、森、祝、宇文字、川下、奥山、朝日、枇杷(びわ)の茶園です。
(現在では、奥山、朝日の茶園の一部が、現存しているそうです。)
④ 北山文化と「会所」
南北朝の争いを収束させた、足利三代将軍義満は、1401年に中国の「明」との交易を開始します。
この交易により、大量の唐物が我が国に、流入してきます。
初期の明貿易は、幕府によって行われましたので、将軍の元には絵画や陶磁器が集まります。
これらの唐物は後に「東山御物」と呼ばれています。掛物(掛け軸)として、国宝の「桃鳩図」や、
牧谿(もっけい:13世紀後半、宋末元初の僧)筆の、「観音、猿、鶴図」、「竹雀図」の他、
天目茶碗や、茶壷なども含まれ、これらが「会所」などに、飾られたり使われていた、様です。
但し当時は、絵画などが重視され、茶道具類はさほど重要視されかった様です。
これらの品々は、整然と飾り付けられた「会所」で、唐物を鑑賞しながら、他の場所(茶湯所)で
点てられた、抹茶を「会所」に運び、飲む形式でした。この形式の喫茶方法は、将軍や一部の豪族
以外の豪商などに広まっていきます。
又、 義満は、1395年出家し、北山第(後の金閣寺=鹿苑園)を築き、周囲には御所や泉殿、舎利殿、
更に、歌会、月見会、喫茶(茶会)等に使われる「会所」も作ります。
この時代、同時並行的に、別の形の喫茶方法が、珠光(しゅこう)らにより、始まります。
即ち「侘び茶」の出現です。
以下次回に続きます。
「会所」では、単にお茶を飲む以外に、「闘茶」と言う遊びがありました。
① 「闘茶」とは、宇治や栂尾(とがのお)産の茶を、「本茶」と呼び、それ以外の産地のお茶を
「非茶」として、「本茶」と「非茶」を飲み分ける、ゲームの様な遊びであったと言われています。
鎌倉末期~室町時代に流行した、茶の品質の優劣を舌で競う勝負茶で、賭博性の高い遊びであった
様です。「闘茶」は漢名で、我が国では、「回茶」「飲茶勝負」「茶寄合」「四種十茶」などと
呼ばれていました。
② 栂尾茶と宇治茶
) 鎌倉時代、栄西は宋から持ち帰った茶種を「漢柿蔕茶(あやのかきべた)壷」に入れて
京の高山寺の明恵(みょうえ)に送り、明恵はその茶種を、洛西栂尾の地に植え、その後更に、
宇治の地にも播植しました。13世紀半ば、後嵯峨天皇が宇治を訪れたのを機に、平等院に
小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、本格的な茶の栽培が始まります。
)南北朝時代には、栂尾や宇治で生産された茶が「本茶」とされ、それに続くとされていた醍醐や
その他の産地のお茶を「非茶」と呼ました。茶の種類も数種類から十数種類の茶を、飲み比べ
当てる遊び「闘茶」に発展します。
他の産地とは異なる香り、味を持った茶を生産しようという傾向が生まれ、様々な産地の茶が
生まれる要因と成ります。
③ 宇治七茶園: 足利義満が管領達に命じて、宇治川の流域に七つの茶園を作らせます。
即ち、森、祝、宇文字、川下、奥山、朝日、枇杷(びわ)の茶園です。
(現在では、奥山、朝日の茶園の一部が、現存しているそうです。)
④ 北山文化と「会所」
南北朝の争いを収束させた、足利三代将軍義満は、1401年に中国の「明」との交易を開始します。
この交易により、大量の唐物が我が国に、流入してきます。
初期の明貿易は、幕府によって行われましたので、将軍の元には絵画や陶磁器が集まります。
これらの唐物は後に「東山御物」と呼ばれています。掛物(掛け軸)として、国宝の「桃鳩図」や、
牧谿(もっけい:13世紀後半、宋末元初の僧)筆の、「観音、猿、鶴図」、「竹雀図」の他、
天目茶碗や、茶壷なども含まれ、これらが「会所」などに、飾られたり使われていた、様です。
但し当時は、絵画などが重視され、茶道具類はさほど重要視されかった様です。
これらの品々は、整然と飾り付けられた「会所」で、唐物を鑑賞しながら、他の場所(茶湯所)で
点てられた、抹茶を「会所」に運び、飲む形式でした。この形式の喫茶方法は、将軍や一部の豪族
以外の豪商などに広まっていきます。
又、 義満は、1395年出家し、北山第(後の金閣寺=鹿苑園)を築き、周囲には御所や泉殿、舎利殿、
更に、歌会、月見会、喫茶(茶会)等に使われる「会所」も作ります。
この時代、同時並行的に、別の形の喫茶方法が、珠光(しゅこう)らにより、始まります。
即ち「侘び茶」の出現です。
以下次回に続きます。
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