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わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

お茶の話10(会所2)

2011-11-16 22:33:12 | お茶と「茶の湯」と茶道具(茶陶)
「会所」は、侘び茶と呼ばれる、「茶の湯」の初期の形をとっていますが、大きな違いも有ります。

「会所」では、単にお茶を飲む以外に、「闘茶」と言う遊びがありました。

 ① 「闘茶」とは、宇治や栂尾(とがのお)産の茶を、「本茶」と呼び、それ以外の産地のお茶を

   「非茶」として、「本茶」と「非茶」を飲み分ける、ゲームの様な遊びであったと言われています。

  鎌倉末期~室町時代に流行した、茶の品質の優劣を舌で競う勝負茶で、賭博性の高い遊びであった

  様です。「闘茶」は漢名で、我が国では、「回茶」「飲茶勝負」「茶寄合」「四種十茶」などと

  呼ばれていました。

 ② 栂尾茶と宇治茶

  ) 鎌倉時代、栄西は宋から持ち帰った茶種を「漢柿蔕茶(あやのかきべた)壷」に入れて

   京の高山寺の明恵(みょうえ)に送り、明恵はその茶種を、洛西栂尾の地に植え、その後更に、

   宇治の地にも播植しました。13世紀半ば、後嵯峨天皇が宇治を訪れたのを機に、平等院に

   小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、本格的な茶の栽培が始まります。

  )南北朝時代には、栂尾や宇治で生産された茶が「本茶」とされ、それに続くとされていた醍醐や

   その他の産地のお茶を「非茶」と呼ました。茶の種類も数種類から十数種類の茶を、飲み比べ

   当てる遊び「闘茶」に発展します。

   他の産地とは異なる香り、味を持った茶を生産しようという傾向が生まれ、様々な産地の茶が

   生まれる要因と成ります。

 ③ 宇治七茶園: 足利義満が管領達に命じて、宇治川の流域に七つの茶園を作らせます。

   即ち、森、祝、宇文字、川下、奥山、朝日、枇杷(びわ)の茶園です。

   (現在では、奥山、朝日の茶園の一部が、現存しているそうです。)

 ④ 北山文化と「会所」

   南北朝の争いを収束させた、足利三代将軍義満は、1401年に中国の「明」との交易を開始します。

   この交易により、大量の唐物が我が国に、流入してきます。

   初期の明貿易は、幕府によって行われましたので、将軍の元には絵画や陶磁器が集まります。

   これらの唐物は後に「東山御物」と呼ばれています。掛物(掛け軸)として、国宝の「桃鳩図」や、

   牧谿(もっけい:13世紀後半、宋末元初の僧)筆の、「観音、猿、鶴図」、「竹雀図」の他、

   天目茶碗や、茶壷なども含まれ、これらが「会所」などに、飾られたり使われていた、様です。

   但し当時は、絵画などが重視され、茶道具類はさほど重要視されかった様です。

   これらの品々は、整然と飾り付けられた「会所」で、唐物を鑑賞しながら、他の場所(茶湯所)で

   点てられた、抹茶を「会所」に運び、飲む形式でした。この形式の喫茶方法は、将軍や一部の豪族

   以外の豪商などに広まっていきます。

  又、 義満は、1395年出家し、北山第(後の金閣寺=鹿苑園)を築き、周囲には御所や泉殿、舎利殿、

   更に、歌会、月見会、喫茶(茶会)等に使われる「会所」も作ります。

 この時代、同時並行的に、別の形の喫茶方法が、珠光(しゅこう)らにより、始まります。

 即ち「侘び茶」の出現です。

以下次回に続きます。

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