大佗坊の在目在口

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九州小倉・みやこの旅(郡長正と育徳館)

2011-12-22 | 會津

昨年に続いてみやこ町豊津の甲塚墓地にある郡長正のお墓を訪ねた。豊津の甲塚墓地までは、新幹線の停車する小倉駅からJR日豊本線行橋駅乗換、平成筑豊鉄道田川線の豊津駅で下車、駅から1、2Kのところにあり、徒歩か駅にある無料のタクシー会社直通電話を利用するかどちらかになる。

 

 

この豊津は幕末、小倉藩で「丙寅の御変動」と呼ばれた戦いで、慶応二年(1866)、小倉藩は小倉城に火を放って、藩庁を香春へ移した。そのあと香春藩は田川郡香春から藩庁を仲津郡錦原に移し、明治三年(1870)初め錦原を豊津と改め、豊津藩と改称した。小倉城三の丸にあった藩校思永館は慶応三年五月、香春光願寺に文武館(香春思永館)として再建、明治二年藩庁の錦原移転に伴い、翌三年一月、錦原を豊津と改め、香春思永館は育徳館として開校した。この年、豊津藩は戊辰戦争に敗れ、会津から下北の地に移封させられた斗南藩の七名の若い藩士、郡長正、神保巖之助、木村新治、斎藤徳治、佐瀬豊太郎、山川徳治(旧姓徳力徳治)、馬場興三郎七名の留学を引き受けた。ところが育徳館が閉鎖中の明治四年五月に斗南からの留学生の一人、郡長正が割腹自刃して果てた。郡長正は戊辰戦争の責任をとって自刃した萱野権兵衛長修の次男で弟に日本郵船で長い事、船長をしていた郡寛四郎がいる。

郡長正の自刃の理由がハッキリわからないが、この事件が書かれたのが大正八年(1919)発行の京都郡誌、「豊津、国分、彦徳の大字あり」で始まる豊津村の項に「兜塚に会津の少年郡長政(長正)の墓あり斗南藩郡長政神位、明治四歳次未五月朔日と刻せり、、、、長政が其の境遇の苦情を母に報ぜんとすること同郷人の知る所となり、遂に自刃するに至りしといふ、長政時に歳十五」とある。その後、小説化され、数々のフイクションが白虎隊と同じように会津武士道として美化されていった。

「会津少年郡長正自刃の真相」で宇都宮泰長氏が書かれたように、鳥羽伏見の戦い、その後の西軍としての小倉藩の動きなどについて会津の少年達で戊辰戦争のことで相当な激論が交わされたのではないだろうか。そのあとに会津降人の東京への護送を小倉藩が受け持ち、その道中の話を少年達が聞かされ、その衝撃はかなりのものだったに違いない。最年長の神保巖之助は鳥羽伏見での敗戦の責任で殺された神保修理の弟、二人とも小倉藩に思うところは少なからずあったと思う。

甲塚墓地から2K弱にある県立育徳館高校を訪ねた。ここには明治三年に育徳館開校のときの校門である黒門、明治35年に講堂として建立された思永館、昭和32年、藩校育徳館開校70周年を記念して、会津若松から萱野家先祖の墓土台石と会津鶴ヶ城本丸茶室の庭石の贈呈を受けて造園された郡長正記念庭園がある。

 

 

この旧福岡県立豊津中学校講堂「思永館」は平成元年8月、建造物有形文化財として県の文化財指定をうけている。

 

 

 

 藩校育徳館(2010-11-29

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