大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

信州横田氏

2012-12-01 | 掃苔

会津横田山内家で横田氏の出自をある程度載せたが、実際のところ同じような名前でゴチャゴチャしている。幼名、通称名、諱とあり、しかも、鎌倉時代から続く地方旧家の場合、先祖を辿るのは家伝、口伝に頼る以外に無くその家系の者でもなければ、とうてい理解出来なくなっている。重なるが、榎戸横田家系図によると信州横田氏明(氏俊)子作右衛門、子作太夫と続く。真田宝物館研究誌「松代23号」鈴木景二氏「文政七年真田家家中出仕由緒」に横田甚五左衛門(俊次)私先祖九郎左衛門儀、大鋒院様御代より御奉公申上、承応三年(1654)御朱印頂戴、「松代6号」真田淑子氏「松代横田家」に松代横田家の出自がでていた。それによると、初代横田九郎高俊から七代目の横田助右衛門俊一、実は藤岡善左衛門二男で、八代目甚五左衛門俊忠は小松軍左衛門の次男で横田家喜代の婿養子に入った。この喜代の母親伊予(俊忠妻)は祢津左盛直春の娘。横田家は昔、横田氏重の娘が嫁にいった祢津家から嫁を取ったことになる。上杉家文禄三年(1594)定納員数目録に祢津甚兵衛の名がある。もちろん横田大学の名もある。これが本当なら横田大学と祢津家は同じ上杉氏の家臣だったことになる。もっとも戦国武将でもあった真田信之はこの奥会津の武将横田大学をよく知っていたのではないだろうか。信之は同じ上杉家臣でもあったことにも依るが、徳川家康の十男で、紀伊国和歌山藩の藩主となった徳川頼宣と親しく信之より武辺話を熱心に聞いたともいう。南紀徳川史、南龍公(頼宣)御年十四の御言録に「関東者に横田大学は、権現様御懇意のものなり元来は一城の主なり没落して上杉景勝に奉公し」と横田大学の話が勇士名高き者として記載されている。徳川頼宣は横田大学の事を真田信之に聞いたのではないだろうか。信之は横田一族の娘が家臣祢津家に嫁ぐのを許し、さらに横田氏俊を家臣に召し抱えている。氏俊の子で綱豊(六代将軍家宣)に仕えた源太夫重俊の横田氏は代々、幕臣として仕えて(寛政重修諸家譜)、駒込の浄心寺を葬地としたが、今、墓地は残っていない。
 
「文政七年真田家家中出仕由緒書」や「松代横田家」に出てくる横田九郎左衛門の事や松代横田家の家紋の事が知りたくて松代に出かけたが、残念な事に真田宝物館が休館日で横田家に関する資料関係の確認は出来なかった。
 

 
 
真田淑子氏の「松代横田家」に記載のある横田高俊やその弟清光が榎戸横田家系図の誰に対応するのか判明しないが、松代横田家は初代高俊から七代目助右衛門俊一(藤岡家から養子)、八代目甚五左衛門俊忠(小松家から養子)、九代目数馬俊正と続く。慶應四年戊辰の冬十月、奥会津玉梨村で会津藩士横田大助を自刃に追い込んだのは近藤民之助率いる松代藩五番小隊。江戸詰めの探索方として活躍していた横田数馬はこの時期、会津藩士謹慎受入れの交渉をしていたという。松代横田邸では、家紋を確認出来なかったが、真田氏の菩提寺長国寺で横田数馬の墓碑を見つけた。
 
 
家紋は無かったが別の横田家の墓碑があった。ここに丸に三つ柏の家紋があった。奥会津山ノ内家(やまのうち)の家紋「丸に三つ柏」は丸の外まで柏の葉が出ていて、土佐の山内家(やまうち)の三つ柏は葉が丸の内に収まっていて容易に区別がつく。家紋のある墓碑は昭和七年まで朝鮮総督府で判事として活躍した数馬の三男横田俊夫氏のものだった。
 
数馬の長男は大審院長を務め、のち明治大学総長を務めた横田秀雄氏、次男は八代目甚五左衛門の実家小松家に養子に入り、のち逓信省通信局長を務めた小松謙次郎氏で、秀雄氏、健次郎氏共に青山霊園にお墓がある。
 
青山霊園小松謙次郎墓

墓碑陰文
君諱正俊称謙次郎号払雲旧松代藩士横田数馬
第二子元治元甲子年十一月二十三日生幼養于
同藩士小松正昭長卒業東京帝国大学法科出司
司法省無幾転逓信省累進通信局長後逓信次官
大正元年退官頼選貴族院議員十三年一月任鉄
道大臣六月致仕昭和七年十月十五日入朝鮮探
金剛山之勝遊畢偶発病奄薨 朝廷嘉生前之功
勲勅叙正三位授賜旭日大綬章行年六十九帰還
卜地青山此斂焉夫人荒川氏無男養佐賀県人有
岡茂為嗣配女継室深山氏生一女 諡曰
  真諦院殿釋謙敬正大居士

会津横田山ノ内家

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