大佗坊の在目在口

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小出戊辰戦争史蹟(林昌寺・諏訪神社)

2017-12-10 | 會津

昔、新潟県小出の山奥にある大湯や栃尾又にはよく行った。駅から魚野川に架かる小出橋を渡った左岸には三階建ての木造の家がズラリと並んでいた時代だから、かなり大昔になる。小出にある戊辰戦争史蹟を廻った。魚野川から東に分れる破間川に挟まれた四日町にある小出島林昌寺からスタートした。
 
 
ここは銃弾を抱く大銀杏との伝承が残る寺だったが、倒れる危険が出てきたため、平成20年12月に伐採された。幹の部分から銃弾が発見されたという。破間川の対岸から150m位なので大きな木なら銃弾がまだ残っているのではと思う。林昌寺から1~2分の諏訪神社に行く。
 
 
平成八年(1996)、小出町の町制施行百年記念して会津松平十三代松平保定書「会津藩烈士之碑」が、境内に建てられた。
 
碑裏に
建立のこころ 作家の司馬遼太郎氏は幕末期の会津藩とその人々を「人間秩序を磨き上げた光沢の美しさ」と称賛していますが、会津藩と小出とは、一七〇〇年代、享保時代から一つの文化ルートとして密接につながっていました。戊辰の役の時も、小出の奉行は典型的な会津藩士で、薩・長・土軍の悲惨極まる小出における殺戮と放火に対し、身をもって抵抗しました。このため多くの会津藩士が小出の地で非命に倒れたのです。あれから、星霜百二十余年の歳月は過ぎ去りましたが、小出に生まれ育った者として、今日の小出の街の繁栄を思う時、志を後世に問うと、死をもって小出の地を守り殉じた会津藩烈士の魂を慰めずにはおられません。
戊辰戦争殉難者の皆様、どうか安らかにおねむりください。
 一九九六年六月二十二日 小出町町制一〇〇周年を記念して建立 
                    東京舟陵会会長池田恒雄
池田恒雄は小出町出身でベースボール・マガジン社の創立者です。
境内には小出の戦争戦死者を祀る忠魂碑(陸軍大将福島安正書、大正四年九月建立)もある。
 
丹後跳ね越しの石と呼ばれる大きな石があった。説明板によると「慶長五年(一六〇〇)八月二日、上杉遺民一揆の戦乱 に下倉山城を守る城将小倉主膳の苦戦を救おうと、六日町の坂戸城から堀丹後守直竒が援軍を率いて駆けつけた。 破間川原の激戦中、丹後守は大石に身を寄せ鉄砲で自分をねらい撃とうとしている敵兵を発見、真正面から立ち向かい、平安城という名槍を投げつけた。同時に敵が発砲、丹後守の馬は大石の直前で竿立ちになり、石と敵兵を一跨ぎに跳ね越した。間一髪で敵弾はそれ、槍は敵の胸板を貫いて穂先は土に突き刺さった。のちに丹後守は村上十万石の領主となり、参勤交代の 往き帰りに、「この石は、わしの命を救ってくれた石じゃ」と懐かしみ、馬で跳び越えてみるなどした。時代は下って元禄の頃、丹後守の子孫堀左京亮が、先祖のほまれを刻むこの石を身近に置きたいと、運び出そうとして時、四日町の村人は、「この石は『丹後跳ね越しの石』と申しまして、馬の病気を治してくれる大切な石ですから、持ち出さないで下 さい」と願った。その頃村人は丹後守をその法名「鉄団宗釘大居士」からとって「鉄団様」と呼んでいたが、この石のくぼみに大豆を入れて水に浸し、「南無、鉄団様、跳ね越し給え」と柏手を打って祈り、一晩おいて馬に食べさせると病気が治ったという。子供の夜尿にも同様のまじないが行われてきた。「そのような大切な石なら、川原に置いて洪水に流され でもしたら大変じゃ。神社の境内に運んで置け」という堀左京亮の指示で境内に運ばれ、大切にされてきたものである」。こんな昔話が残っていた。

小出戊辰戦争史蹟(正円寺・大塚墓地)

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