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函館高龍寺 会津藩士田中玄純墓

2023-04-20 | 會津

会津藩北方警備の蝦夷会津藩領の巡察からの帰途、途中の裕富津(ユウフツ)、現苫小牧市勇払で病死した会津中老田中玄純の墓域を訪ねた。この田中家の墓域にたどり着くのが大変だった。高龍寺の墓地はかなり大きく、墓域の半分以上函館山斜面に沿って造成されている。高龍寺を訪ねるまえに殆どの場所で坂を登るか、傾斜地を上がるかして体が悲鳴を上げていた。庫裡の右側、墓地の中央の道を直進、約70mで塀にぶつかり、塀にそって左に約25m、山の斜面に沿った墓地道の手前、ヘヤピンを右手に折れて約40m進んだ左にブロックで囲まれた田中家の墓域がある。
(写真家横山松三郎墓案内板の右側、道の奥)


 
会津田中氏は太田亮「姓氏家系大辞典」によれば「伊勢の田中氏で玄儀に至り武田氏に仕える。その孫正玄、会津候に仕え」とある。諸士系譜に田中清右衛門玄重二男三郎兵衛正玄が初代、その四代正顕の三男源吾玄通子玄純の嫡男が銕之丞玄純となる。田中玄純は蝦夷地若年寄・陣将代に任じられ万延二年二月(1868)、会津より箱館に渡り蝦夷封域を巡察し、六月に樺太に渡るも病に罹り裕富津に還り文久元年七月晦日没す。法諡は賢徳院殿忠光玄純居士。蝦夷にたび立つおり「ことしあらは鎧の袖をかたしきて戟の枕に死すもいとはす」の歌を残している。田中家墓所の入口に昭和五拾年拾壹月弐拾弐日会津中老田中玄純末孫田中清玄建之とある。清玄は玄純の四女八重の娘、愛の長男、玄純からみて清玄は姪孫にあたる。昭和五年(1930)日本共産党中央委員長から転向後、経済界、政治活動のフィクサーとして活躍した。
撰文の橋爪盛道は昌平学舎で学び、のち西遊して肥薩を極め、儒者見習勤となる。猪苗代に転任、のち若松に帰住し忠誠神君(松平容保)に侍講し、その後京都で公用局勤となる。書は会津藩祐筆を勤めた庄田坦(荘田胆斎)によるものです。

会津中老田中玄純墓文
我藩若年寄陣将代田中君以文久元年七月晦病終于裕富津
年止五十有五令嗣玄直奔喪盡哀與其弟玄忠葬君于箱館高
龍寺法諡曰賢徳院殿忠光玄純居士喪訖還国 公特命為奏
者番數来余舎乞文表其墓余嘗受君知遇故贈其行以文則其
没也亦悪可無言君諱玄純通稱鐡之丞田中其姓也故老職三
郎兵衛正玄君事 土津公名聞於当世土井候稱為天下三家
老之最君其支孫也考玄俊君稱鐡次郎豪遭不群善兵法為軍
事奉行以撰為相州番頭妣石川氏長久女君以文政八年承家
行襲禄三百五十石為家老組外士除物頭遷組頭以疾辞官既
而復起為目付歴公事奉行轉郡奉行進大目付拝学校奉行嘉
永六年擢為奉行與参政事許乗與行封内前後恩賜不可勝□
安政三年加禄賞其功労四年五月 公就封也命君報諸 大
府乃赴江戸謁  大将軍睨縐紗二疋六年又加賜禄時蝦夷
地未闢洋虜不測 官乃分賜於我及仙臺等諸藩君撰為蝦夷
地若年寄勤陣将代進班増禄 公手賜麾及韁憤盃酒累賜饌
食酒肴己而公覲江戸又手書慰勉之萬延二年正月為若年寄
寄陣将代如故二月発会津三月至箱館五月発戸切地而巡視
封域六月済北蝦病而還裕富津 公遥致書而問之且賜金及
歿又賜賻銀葬金蓋異敷也君状貎豊碩懐無滞吝才兼文武膂
力絶人然謙虚不夸勤敏温恵故人感其恩而服其才余嘗謂我
藩敵水府藤田氏者二人而君其一也其往也必能斉績顯□□
始如遠祖而使言国有人矣不幸溘焉不能有一所施為誠可惜
也君嘗自言吾至彼地必不帰嗚呼知死而不畏見害而不避可
不謂忠哉配伴宗馮女生二子長即玄直稱源之進次即玄忠稱
金次郎女二人玄忠随君而行君歿猶留而未還兄還而奉公事
母弟留而展墓終服君其可謂有後
       文久二年壬戌二月七日            会津橋爪守道撰
                                                          庄田 坦書

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