大佗坊の在目在口

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会津藩小出島陣屋跡

2017-12-22 | 會津

四十年ほど前、冬、小出に行った。本町バス停からな横道に入っていくと半分、雪に埋もれた大きな碑があった。現在の第四銀行横を入り、観音寺傍のなかよし中央公園付近で、思えばこれが懐旧碑だったようにおもわれる。
 
 
正円寺から交差している水路の前を左折すると前方に草木の生い茂っている所がある。ここに篆額書子爵松平容大、撰文高等師範学教授南摩綱紀による戊辰戦争懐旧碑と戦死者姓名、自刃した会津藩士の辞世の歌、松代藩士蟻川賢之助の歌碑があった。
 
 

懐旧碑の原文は明治二十九年七月に書かれたが建立は明治三十五年、序幕式は翌年の三十六年に行われ、同時に戦死者姓名の碑も建立された。陣屋跡に小出小学校が建てられ、明治四十二年小学校移転、その後、小出町役場が建設され、これも昭和六十一年に土地区画事業により移動された。
碑文にある「臣為死忠 懐舊感恩」、臣として忠に死す、旧をおもい恩に感ず。これは戊辰後、旧会津藩士が皆、心情に持っていた事に違いない。碑文中にある「四月訛傳江戸上野戦争事」、上野戦争の訛傳とは何を伝えたかったのだろうか。
 
四日町覚張常五郎宅で自刃した会津藩士は障子に辞世の句と輪形月としたためた添書を残した。「つつおとに鳴くねやすめしほととぎす 会津に告けよもののふの死を」 輪形の月は満月を表しており、望月も満月、この会津藩士は望月武四郎とみられている。
辰閏四月下旬 小出島の戦ひにみまかりし敵なからやさしきもののふの心根を吊ひて、松代藩士蟻川賢之助は「ほとときす魚野川邊の夏あらし とわに傳へよ波騒の聲」と弔意を表した。昭和六十三年六月、戊辰百二十周年記念事業として歌碑が建立された。この松代藩士蟻川賢之助の蟻川家は上州蟻川村で浪人の時、真田昌幸に召出され、信之に仕える。松代真田宝物館の刊行物「松代」によれば、蟻川賢之助は「名は直方、自強堂と号す。佐久間象山門下。吉田松陰と同門。蟻川は文久3年(1863)藩の鉄砲奉行となり、幕府の講武所砲術教授並びに書役となる。慶応4年(1868)の戊辰戦争で活躍。明治2年(1869)兵部大丞となり、在職数年で辞める」とあった。

懐旧碑文
越後国魚沼郡小出嶋舊係高田藩封地有陣営後為会津藩所領又建陣営以治魚沼三嶋両郡二萬四千石余地明治戊辰之乱罹兵燹為鳥有乱平里人請官建小学校其址頃里人胥議将建石記其事以弔戦死者之霊且表営址於萬世使不忘舊侯之遺澤請余文余問其戦状曰四月訛傳江戸上野戦争事営長町野源之助率部兵二十人及郷兵六十人往守国境三国嶺二旬餘寂然無聲因帰郷兵僅留部兵閏四月二十四日拂暁官軍突進発砲町野等力戦不能支退守小出嶋営報急於小千谷隊長井深宅右衛門率三小隊馳来山内大学亦率一小隊自会津至二十七日昩爽大戦官軍數千人而我兵僅二百人衆寡不敵退向六十里嶺我兵死者十四人余聞之愴然涙下曰當時抗官軍者今皆浴一視同仁之澤共為太平臣民而死者擉不得蒙其恩何其不幸也然闔校生徒読此碑而記其事仰懐舊侯之澤俯祭死者之霊則迷魂亦應永有所帰矣嗚呼諸氏建碑之志可請厚矣仰学校教人之道以忠孝為本今是挙関教育蓋非尠少也矣
銘曰
  為臣死忠 香骨不朽 懐舊感恩 民徳帰厚 刻之豊碑 可傳悠久
明治二十九年七月
高等師範学教授
正六位勲六等南摩綱紀撰並陸軍騎兵少尉正五位勲五等子爵松平容大篆額

懐旧碑横の碑記載の会津藩戦死者姓名
町野久吉、沢田傳吉、郡内半五郎、小沼雄八、好川瀧之助、望月武四郎、
渡辺源次郎、古川深次郎、佐藤源右衛門、小檜山包四郎、須佐留四郎、
湯浅六弥、松尾延蔵、樋口常作

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