大佗坊の在目在口

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小出戊辰戦争史蹟(大塚墓地・正円寺)

2017-12-16 | 會津

小出町の戊辰戦死者墓は大塚墓地と小出保健所との境、墓域右奥にある。
 
 
戊辰閏四月二十七日、小出島戦の会津藩戦死者を正円寺の大龍和尚が官軍に請い、自費を以て立ノ内火葬場に葬り戒名を授け、墓を建てた。昭和4年6月、この大塚墓地内に戊辰戦死者墓を新たに建立、その際に和尚の建立した十名の戒名のある墓と樋口常作の墓碑が隣に移転された。
    
同年8月、東軍戦死者の墓参のため、海軍少将子爵松平保男と町野主水嫡男陸軍大佐町野武馬一行が小出を訪問している。大塚墓地には戊辰戦死者墓と明治二年一周忌に大龍和尚は与えた十名の戒名を記した墓碑を建立する。この十名とは小出島と四日町における会津藩兵の戦死者、町野隊 佐藤源右衛門、井深隊 望月武四郎、渡辺源次郎、松尾延蔵、郡内半五郎、沢田傳吉の六名と戦傷小千谷にて斬首された町野隊 小檜山包四郎、古川深次郎の二名、青島村で自刃した井深隊 樋口常作、堀之内で斬首された山ノ内隊 須佐留四郎の十名と思われる。傍に負傷して青島にて自刃した樋口常作光孝の墓が残っている。

村の重立が協議して林泉寺より慶應四年の盂蘭盆会に戒名(鉄應義膽居士)を受けて建てられたという。「戊辰小出島戦争百二十周年記念誌」にあるエピソードが記載されていた。「四日町では捕虜となった山ノ内隊の某二人があり、堀之内に連行勾留されていたが、松代藩兵横田某の行為で一旦脱走したが、一人は再び捕えられ同所の川端で斬られた。五月四日のことであろうか、姓名は須佐留四郎のようにかんがえられる」とあった。この松代横田氏は戦国時代の武将、会津山ノ内氏勝の弟横田大学の子孫ではないだろうか。
大塚墓地から大龍和尚碑のある稲荷山正円寺に向かう。水に関係ありそうな名前の清水川辺神社を通って正円寺に行く。小出を訪れるのは殆ど雪の積もった時期が多かった為、町なかを水路が勢いよく流れているのに気が付かなかった。
神社の脇を水路が交差して流れるのをしばらくの間、眺めてしまった。冬、小出は豪雪地帯で除雪のときに水が道路に溢れないようにする知恵なのだろうか。

正円寺入口脇にある教育委員会の説明に「大龍和尚は文政三年(1820)五月二十日、高橋治良右衛門の三男として生まれ文政十年千溝村林泉庵で得度後に西福寺住職となり開山堂を作り石川雲蝶の大作の完成に大きく寄与した。正円寺隠居(監寺)として、戊辰小出戦の会津戦死者を葬り、戒名を与え墓碑を立てた。碑文の揮毫は永平寺六十三世管主曹洞宗管長龍谷琢宗、元正円寺住職である」とあった。
 
 
正円寺墓地には宝暦四年(1754)、勘定組頭となり、同五年七月、越後二度目の地検の時、亡くなった土山藤右衛門孝祖の墓(孝祖男宗次郎孝之の時、不始末により御家断絶)と良寛弟子貞心尼(奥村ます)と離別した漢方医、関長温の墓も残っている。
 
 

信州横田氏

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