大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

〆て金五百八拾一両弐朱也

2010-02-05 | 會津
戊辰鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂に集結した会津藩士は、
どうやって江戸藩邸まで引き上げたのだろうか。

{鳥羽伏見の戦いの発端地、小枝橋近くの鳥羽伏見戦跡碑}



会津戊辰戦史[山川健次郎監修]に、戊辰正月七日幕兵は午後より紀州に
赴き江戸に帰るべきの命あり、尚志[若年永井尚志]曰く、会津桑名の兵は
皆紀州より乗船して江戸に至るべし、己に和歌山藩に約する所ありと
(在阪の和歌山藩家老と交渉せしを云うなるべし)

{紀三井寺からの和歌浦}

 

会津松平家譜によれば「八日我兵大阪を発して紀州に入る、紀藩人を国境に
出して和歌山に入ることを拒み、加太の浦に行かしむ。時に我兵金穀欠乏す。
乃ち之を紀藩に謀る。遂に陸路大島に至り、其の地より海に航して三州吉田に
至る迄の旅費を負担せんことを求め其の許諾を得たり。また和歌浦に於て永井尚志、
小野廣胖に依りて旧幕府の金五千両を借りる」とある。

また、明治二十一年に記録された会津藩戦争日誌慶応四年正月七日から要約すると
「[大坂]八軒にて林隊と合兵し山川大蔵隊長となり」さらに「八ッ時頃より
[大坂城に]繰入る此時始て我君[容保公]供奉御立退の事を知り且江戸へ
引べきの君命の由を聞て」「八日一統東本願寺に会し、四ッ半頃出起惣殿[しんがり]の
堺に至て宿す、九日新舘、十日磯脇村、十二日由良港上陸小松原村、十五日午後
出起由良港、十七日出帆夕刻尾鷲港着、十九日出帆夕刻的矢ノ港着」このあと廿三日
上田傳治の尽力で幕府の蒸気船にて八ッ時品川沖に着、此の夜は品川駅に泊っている。

戊辰の後、四十六年後の大正三年、刊行された藤沢正啓「会津藩大砲隊戊辰戦記」に、
地名等克明に記録されている[内容は会津藩戦争日誌を土台としたと思われる]

「九日新館に宿陣す。紀州街道を幕府我が藩を始め桑名其他の大兵落ち行くを見て、
斯くの如き大兵を擁して二三回の会戦に大敗し退散するは時運とは言ながら遺憾も
極りなく涙を流して嘆息せざるものなし。十日、紀州領磯脇村に宿す。十一日磯脇村滞在。
磯脇村は海岸にして加田村に属し加田村には有名なる淡島神社あり。十二日小船に
分乗して対岸由良湊に上陸す。峠を越えて二里進小松原村に至り宿す。
一両日来山川隊長不快なりしも当所に来りの熱病の気味にて数日滞在治療の上帰東せらる。
十三日より十五日迄小松原滞在。十六日再び由良に戻り和船八百石積にて出帆。
十七日申の刻頃尾鷲湊着一泊。十八日滞在。十九日出帆夕刻志州的矢港着。
二十二日迄滞在。廿三日同所に機関修繕の為入港しありたる幕府の蒸気船長崎丸に
依頼し乗船して出帆することを得たり。組頭上田伝次の尽力による。
謝礼として船長に百金を贈る。二十四日品川上陸同所一泊」とある。

幕末、幕臣となった西周の自叙伝によれば、七日大坂から紀州に向かい、九日和歌山着、
十一日和歌浦に移動、十七日和歌浦から陸路、湯浅から十九日由良に到着、ここから幕府、
会津藩の傷兵と共に幕艦ヘルマン号に乗船、二十一日に江戸湾に着いている。

日高郡誌に、十二日五百四人の落武者が由良に上陸、[丸山鎮之丞が湯川町財部(御坊市)
の往生寺、山川浩は御坊小松原の中屋旅館(中吉旅館?)で療養]二十日比井港から船で
熊野に引揚げる。田辺要史串本町誌に十九日から二十日にかけて当地に会津藩落武者が
到着、芳養浦から伊勢に、串本から三州吉田に送り出したとある。この中には大野英馬、
南摩八之丞等の名が残されている。

紀州藩は朝廷への敗兵に関する報告とは異なり、会津藩兵を加太から由良に送り、
その後、庄屋らに敗兵への援助を指示し、会津藩兵、幕兵が紀藩を離れると敗兵の
探索を命じており、紀藩はギリギリの選択をしたことになる。

{紀州由良の町}



{九鬼と尾鷲の間の大曽根浦}



この間の出来事を示す和歌山の加太浦水主庄屋の記録が残っていた。
慶応四年辰正月
会津藩落武者当浦より紀州由良江乗舩之節書類并に同記帳
  加太浦水主庄屋 羽藤八郎兵衛



御乗船人数〆千八百五十八人但し一人前金一歩一朱

 

これは十一日から十四日にかけて加太から由良に逃れた会津藩士千八百五十八人の
船賃だった。前金〆て五百八拾一両弐朱。[一両は四歩、一歩は四朱で単純に計算すると
五百八十両二歩二朱]この内五百五十両を会津藩勘定方に請求している。
これが加太に集結した会津藩士千八百五十八人の命拾いの値段だった。

南紀徳川史を編輯した堀内信は述べている。
「彼の潰兵江戸に着き、我が赤坂邸前を過る者は地上に跪き、
館を拝して啼泣する者ありし」と。

日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、米価から計算した
金一両の価値は幕末頃には今の3~4千円だという。
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