大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

九州小倉 福聚寺

2011-12-26 | 

長州、小倉の旅の最終日はJR小倉駅構内からスタートした。お目当ては7・8番ホームにある立ち食い店の「かしわうどん」。「かしわうどん」と注文したが、後から来た地元の人達は「うどん」と言うだけで同じ「かしわうどん」が出てきていた。かしわのそぼろは甘辛の濃い味付けが甘めのだし汁によくあっていたが、なんといってもコシが全くない饂飩に不思議な感触を味合う。ほとんどの人が汁を飲み干していたのはさすがだった。

 

 豊津からの帰り道に城野駅で途中下車、小倉藩主小笠原家菩提寺の福聚寺を訪ねた。このお寺は九州では数が少ない黄檗宗の寺院で寛文五年(1665)、小倉初代藩主小笠原忠真が創建したもので、開山は中国僧の即非如一禅師(隠元の高弟)。始め足立山麓不老庵の跡地に建てられたが二代藩主忠雄の時、現在地へ改めたという。

即非如一禅師は明暦三年(1657)来日し、肥前長崎の崇福寺の住職となり、寛文三年(1663)、山城国宇治の萬福寺に移り、萬福寺首座となった。寛文五年、豊前小倉藩主小笠原忠真に迎えられる

 

 

 

 

長崎の崇福寺、宇治の萬福寺

  

福聚寺仏殿(本殿)の扁額「吉祥寶殿」、「不二門」内側の扁額は即非和尚の書による。

小笠原家の墓域がどこにあるのかわからなかったが、庫裏で話をしているうちに墓所の入口の鍵を貸して貰えることになり、お寺の横の寿山町足立公園への登り坂を少し行った右側にある小倉藩主小笠原忠真の墓所に向かった。寛文九年(1669)、忠真の三回忌に法雲和尚による碑文の墓碑を建て、その墓前には一族や家臣が献灯した燈籠が並んでいる。忠真の墓碑下方に、二代藩主忠雄の生母「永貞院」の墓がある。

  

 

 

小倉藩小笠原氏の江戸菩提寺松が谷大雄山海禅寺

 

小笠原忠真の四代前の小笠原氏直系で武田信玄に敗れ会津の葦名氏の客分となった戦国武将小笠原長時の墓のある会津若松の大龍寺。

 

 

 

 

 

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